【毎月どこかでスタートアップ】起業家・コーチ | 小島有史

小島有史です。
自身の会社(株式会社GRIT VENTURES)を経営しながら、株式会社GOAL-Bのメンバーとしても楽しませてもらってます。

幼少期(1993-2000)

1993年8月11日に静岡県沼津市にある病院で産まれる。生まれは静岡、育ちは神奈川県川崎市からの東京都世田谷区。
3人兄弟末っ子。B型。相当大きい状態で生まれた。

小学生

愛されるデブ小学1年生で体重が30キロ、かなりの肥満児だったが自分自身太っていることを気にしたことはなく、性格もおだやかだったので「愛されるデブ」に。超鈍感、超ポジティブ。

友達のお母さんに誘ってもらいバスケットボールをはじめる。当時、他の子よりも数倍大きかった自分はセンターを任命される。人気のポジションはフォワードだったが、特にこだわりもなく人に何か期待される感覚が心地よかった。
しかしゴール下で楽できると思いきや、攻守が入れ替わるたびにゴール下からゴール下まで走るのはかなりハードで1試合走りきれたことがなかった。「体力をつけよう」とは思わず「どうしたらなるべく動かず活躍できるか」ばかり考えていて、監督に何て怒られても無視していた。

中学生

中学校のバスケ部は市では一番強く、県大会もベスト8程度はいくまあまあ強いチームだった。ミニバスの時の友達もみんないたので特に考えることもなくバスケ部へ入部。
仮入部初日、初めて病気以外で吐いた。今考えるとそんなにハードでもなかったが、その日は夕飯も食べれず、家族にものすごく心配されたのを覚えている。(太ってると食欲がないとやたら心配される)
結局、仮入部期間の最終日まで夕飯をろくに食べれない期間が続く。家族みんな心配する中、本人はみるみる痩せていく身体に「変化」を実感していた。このとき成長期だったこともあり1週間の仮入部期間で6kg体重が落ちた。ここからこの「身体の変化」にハマり、「何したら痩せんのかな」と痩せそうなことは外周でもなんでも夢中で取り組む1年間が続く。

中学2年生、ダイエット目的とはいえ練習に本気で打ち込んでいたことには変わりなく、上級生の試合に出してるようにもなったり地区選抜に選ばれたり、人生初めての彼女もできたりと絶好調。バスケが市でトップクラスに上手になった。
今まで難しいと感じていたことも、そんなに難しくないなという気持ちでいっぱいに。
合唱コンクールでもピアノを引いている男はカッコ良いと思いピアノを爆速で練習して伴奏者として出たりと、興味を持ったことはなんでも躊躇なくやった。(周りの意見は全て無視。それでも阻むものがいると相当不機嫌になり喋らなくなる。)
なんでも楽しく感じ、親の策略で今まで避け続けた塾にも通わせてもらい勉強も努力するようになる。もともと教育熱心だった父親も喜んでおり、父親が喜んでくれることが嬉しくてもっとがんばった。(姉と兄はレベルが違う学力の高さを誇っていたので、無意識的に中学受験していない自分は勉強苦手と思い込んでいたのもある。)

良い感じだったが中学3年になりたての4月、父が脳卒中で急死。

「君たちのお父さんは亡くなりました」

細かい話は遠慮しておくが、ここで自分の人生が大きく変わるきっかけになったことが3つある。
①母親のメンタル一時崩壊
母親は昔も現在も人一倍明るく、若々しく、超お喋りな人だ。そんな母親が突然の出来事から2〜3年間だけ家族には見せてくれた「弱い一面」。14歳ながら人生で最も「1人で生きていく力をつけるぞ」と思った瞬間だった。
②衝撃的な葬儀
亡くなってから葬儀が行われるまで数日間あった。葬儀までの期間に、川崎のごく普通の一軒家に次々と葬儀に参加できない人たちが線香をあげにきてくれた。毎日ひっきりなしに、本当に次から次へと。そして葬儀当日の衝撃は後ろまでずらーっと数えきれない参加者がいたこと。そして友人代表の挨拶を務める元プロ野球選手の中畑清さん。中畑さんは昔からBBQに連れていってもらったり、本当に「元気なおじさん」だったが、あとから超有名人だってことを知った。そして一級建築士だった父は多くの人から家の設計を頼まれ、多くの人と仕事で関わりをもち、その全員から涙を流される。いつも酒飲んで頑固でびっくりするほど真面目すぎる父親はこんなすごい人だったのかと、この時初めて知った。
③父親が残した言葉
中畑清さんから言われたことが自分の中で今でも残っている。
「一夫(父親)はいつも言ってたぞ。ゆうじは自由に育ってほしい。ゆうじはあやの(姉)とけいた(兄)ができることが苦手だったりするけど、ゆうじの方が得意なことも多いんだ。だからゆうじには自由に選ばせてやりたい。」
この一言が強烈に残ってる。やりたいことを100%やる。なおかつ父親のように多くの人から求められ、幸せにできるような結果を出すという想いが芽生え始める。

高校生

周りが引くほど没頭してしまう自分は、学校行事が好きすぎて暴走してた。合唱コンクールの練習になかなか参加しない男子生徒にはしつこく絡み、みんなが気分良くできるためなら割と何でもした。体育祭でもみんなが出たくない競技に進んで立候補したし、何にも興味がないという強みだと思っている。

成績は割と全部良く、バスケ目的で入学した高校が大学の附属高校だったため受験もなくエスカレーター式に大学が決まる。ちなみに意外と言われることが多いがテスト前に勉強するタイプではなく、毎日机に向かってから寝るタイプだった。
受験がないため部活を引退してからとてつもなく暇で、当時はスラムダンクの桜木花道ボディを目指して筋トレを開始する。最初は非効率的なダッシュからはじまり、腕立て200回、腹筋と背筋100回といったような非科学的なものだったが、筋トレが最高すぎることに18歳で気づく。身体がでかくなる感覚ではなく、身体が洗練されていく感覚が最高だった。

大学生①

ある日テレビで「上京して頑張る一つ下の女の子」が衝撃的すぎて、自分の現状に絶望を覚える。実家からでも大学に通えたが、すぐさま貯金のほとんどを使いノリでひとり暮らしスタート。

その頃の彼女は体育会スキー部で全国大会にも毎年出ているようなガチ勢。その子の周りもみんな体育会だったことに対し謎の対抗意識を燃やす。一人暮らしの家の近くに当時できたばかりだったJOYFIT24に入会。お金なし、サークルなし、友達なしの授業と筋トレだけの大学生活がスタートした。本屋で筋トレ本を立ち読みし、脳内にインプットしてその足でジムに向かう。試してみてしっくりくるものはメモに落とし込み、トライ&エラーでとにかく筋トレにハマった。大学の近くにひとり暮らししていたため、筋トレ→授業→本屋→筋トレ→また授業といったような1日を送っていた。高校から一緒に大学に上がってきた友達とも疎遠になり、いわゆる「ぼっち」になっていったが、心底毎日が楽しかった。
卒業時には文学部なのに卒業論文で「筋トレが世界を変える科学的根拠」という研究をしようと思ったら教授にダメだと言われ諦めた。しかし今でも、教授の言うことを振り切ってでも自分が選んだテーマで研究しておくべだったと強く思う。

大学ぼっち生活が充実した大きな理由の一つが当時のアルバイトだった。筋トレが好きすぎて、小田急線「新百合ヶ丘」という駅にあるKONAMIスポーツでバイトを始める。人と話すのが大好きだと気づけたきっかけにもなり、社内ライセンスを取得していく中で「トレーナー」という仕事に興味を持つ。週6でシフトに入った

大学生②

当時、母親も復活し始めていたが仕事はしていなく扶養にも入っていない状態だった。そのことを心配してくれたバイト先の上司が相談に乗ってくれ、自分でも調べた結果、大学生のうちから業務委託契約という形で個人事業主になれることをしった。そこから速攻バイト先に相談し、パーソナルトレーナーの資格とグループフィットネスの資格を取得し、成果報酬型の業務委託トレーナーとして社会人生活をスタート。

そしてしばらくして、転機が訪れる。

パーソナルのお客さんに3社経営されている社長さんがいた。その人からある日「まーくんは飲食向いてると思うな。トレーナーも良いけど飲食の方が夢があるよ。」と言われた。(当時、楽天の田中まーくんに似てるとその人にいわれていたからまーくんと呼ばれていた)
実はトレーナー1年目にして、「このまま頑張っても限界があるのかな・・・」と思ってしまっていた。今考えれば決してそんなことはなかったと思うが、当時はパーソナルトレーナーとしての活動に天井を決めてしまっていたように思う。
「飲食は夢がある」その一言がきっかけで、新しい熱量と小学生時代にどハマりしていた時の飲食に対する熱量がこみ上げてきた。

そしてすぐ、飲食店でアルバイト経験すらない素人が店を出す前提で何をやるか考えた。理想はイタリアンとかフレンチとかかっこいいものをやりたい気持ちもあったが、そのときの頭は驚くほど冷静。今思えば、完全にビジネスマインドになっていた。「自分は素人」ということも認識し、ある日飲食経営者の社長に目黒にある「中垣」というもつ焼き屋へ連れて行ってもらった。もつの名称が全くわからず、「これなんですか?」「これどんなヤツですか?」と焼き師の男性に質問すると、すごく嬉しそうにいろいろ教えてくれた。と同時に、今まで食べたことのないような美味しさに感動した。もつ=飲み込めない、臭いのイメージがあったのが払拭され、自分もそんなイメージを払拭してみたい!飲食で感動を与えてみたい!そう思いもつ焼きについて一から調べた。
・もつは鮮度が命=本物の鮮度で勝てればかなり有利
・市場から直接出るもつは原価が均一で安い=ここに鍵を感じた
・串焼きは料理ではなく芸術=素人でも勝負できると確信
・炭じゃないと焼くのに時間がかかり固くなる=炭一択
・処理、捌き、串打ち、焼きの総合点=気合と丁寧さで勝負できそう
・余った材料で一品ものも豊富に作れる=フードロスを徹底して抑える
・3人いれば回せる=人件費を徹底して抑える、空いてるときは1人回し

とにかくやってみよう。そんな気持ちで親にも誰にも報告することなく、もつ焼きに決めた。

社会人生活①

もつ焼きにきめてからは難しいことを考えることもなく、大学4年の12月に「芝浦ホルモン」に修行で入る。もつ焼き屋の中でも食肉市場から直通ルートの仕入れにより抜群に良いとわかったため、そこから仕入れルートを開通させようと企んだ。なじみ始めた1週間後、店主に「24時間でも良いので、もっと修行させて下さい」と懇願した。断られたがここで引いたら終わりだと思い食い下がり続け、ついに店の鍵を貸してもらった。当日のものしか使わないこだわりの店だったため、使わなくなった肉で捌き放題、練習し放題。その道一筋15年の職人に3ヶ月で独立したいといった時はさすがにキレられた。
それから数ヶ月、結局卒業式も出ずにトレーナーとしての活動で貯金を貯めながら、修行の身として芝浦ホルモンで働き続け、品川駅にある食肉市場を紹介していただき、いろいろ経て2016年9月に「浜松町 もつ焼きふじ屋」をオープン。冷静に見るとガラ悪いなと今は思う。

ふじ屋浜松町集合写真

まずは計画通りもつは鮮度にフルコミット。だが、どの業界にもあることだが新参者にはどうしても良いものが回ってこない。他の店舗はトラックの配送を待つのが主流(というか当たり前)の中、常識通りにやっていたら負けると思った当時22歳の自分は店に住み、浜松町から品川の食肉市場まで毎朝肉がが出荷される直前に市場へキャリーバックで直接受け取りに行った。しかし最初はあまり質の良くないものを回されていたため、もっと早くに毎朝市場へ出向き、なにをして良いかわからなく意味ないことかもしれないが清掃や準備を手伝った。最初は白い目でみられていたが、何か言われるたびに必死に「自分本気なんで!!」「好きなことやってるんで全然疲れないっす!!」と半分事実、半分強がりで言い続けてから2ヶ月、「見る目あるか確かめてあげるよ、選んで良いよ」と言われるようになる。ベテランたちが配送を待つ中、直接取りに行くという常識外れな行動が結果を生んだのだ。
そこから鮮度100%、質100点(特にレバー)をどの店舗よりも切り方一つこだわり抜いてからは、明らかに食べログの口コミもリピーターも増え始めた。そのくらいもつは同じ仕入れ値でもモノが全く違ってくるのだ。
店で起床→食肉市場→仕込み→営業→仕込み→就寝→起床・・・の生活を繰り返しオープンしてから3ヶ月経った12月、はじめて売上が自分の中の目標値に到達した。「最高すぎる。もっと頑張ろう!!」そう思って継続した結果、売上は目標数字を大きく上回り、月商900万円まで伸び続けた。メンバーの協力もあり浜松町、神田、恵比寿、西新宿と店舗も伸ばし、浜松町と恵比寿は取材もされ特に盛り上がっていた。

↓恵比寿取材時
https://retty.news/34659/

↓浜松町記事

ネオ酒場

ふじ屋①

しかし、そこまでの過程は当時23-24歳という人間としての未熟さ、余裕のなさが原因で人がどんどん辞めていった。新しい人が入っても辞めていく。結局、予約が満席になり続ける中、気持ちよく営業ができなくなっていったのだ。当時はトレーナー仲間や数少ない親友と言える友達、常連の女の子が手伝ってくれていたが、余裕がなくLINEに色んな人からの連絡が溜まっていく一方で、鬱っぽくなっていた。唯一の救いが複業で数件やっていたトレーナー業で、寝るよりもトレーナー業をしている方が心は楽だったのだ。

結局、業態を譲る形となり、ひとまずトレーナー業だけに戻ることになる。

社会人③コーチングと出会い複業開始

アンソニーロビンズの存在を知り、コーチングの存在を知った。飲食のときにつながっていた経営者に食事に誘ってもらい、そのときにその話をしたら「自分もコーチング受けているよ」と教えてくれ、コーチも紹介してくれた。そこから迷うことなくコーチングに申し込んだ。そこで自分が知ったことは、「人を能力で引っ張っていくリーダー的存在」としての活動に大きなストレス、負担を感じているということだった。学生のときに行事に打ち込んだ時も、飲食にチャレンジしたとき、自分も周りも「組織のリーダー」として認識していたが、実はそれは本来の自分の姿ではなかった。昔から今も「やると決めたら夢中になりすぎる」「無意識に個人・組織のパフォーマンスを最大化のために動いていた」のが本来の自分だった。最初は胡散臭いと思っていたコーチが、僕の人生を大きく変えてくれたことにとても感謝しているし、このときから自分もコーチングを学びはじめる。
自分がトレーナー時代にやっていたグループフィットネス(LESMILLS)のトレーナー(インストラクターを育てる人)になり、そこからナショナルトレーナーというポジションになると全世界共通のトレーナーサミットに参加する権利を得ることができ、そこで世界的なコーチングを受けることができると知った。
すぐにライセンスを取り戻し、その1月後にあったトレーナーオーディションに参加。この時の自分はまさに現状の外側にコンフォートゾーンがありエフィカシーがとてつもなく高い状態だったこともあり「もつ焼きふじ屋の店長がいる」という話題にもなり名前を覚えてもらえ、実力も評価されトレーナーオーディションに合格。そのあと無事ナショナルトレーナーにも合格し、速攻コーチングを受けにスペインまでいった。残念ながらコーチはアンソニーではなかったが、翻訳の人にもついてきてもらっていたので5日間のサミットを夢中で過ごした。この時に「コーチングとワークアウトの組み合わせは最高すぎる。これが俺の人生だ。」と本気で思った。
その年のおわりにはトレーナーの中でもっとも輝いたルーキーとして「RISING STAR」という賞を受賞。
そこからはトレーナー、コンサル、コーチで複業スタイルがはじまる。人の想いや熱量を感じられるこれらの仕事が大好きだった。

表彰

写真

結婚・娘が誕生

奥さんに対する気持ちや出会いはここには書ききれないので、それだけの別記事を書こうと思う。
2019年、最愛なる奥さんとの間に娘が生まれて、さらに人生に対して深く考えるようになった。

その後

24歳の終わり頃からはパチンコ業界福利厚生事業、冷凍食品物流事業、女性専用パーソナルジム&エステ、フードデリバリー専門店、など今まで小さく初めて拡大可能性感じるときに売却するといった形でインキュベーター的な連続起業家として活動してきたが、より自分らしく現状の外側に挑戦をしていくという想いも込めて2021年、株式会社アオハルを設立。「エネルギーを阻む全てのものをなくす」という、クリエイティブに何かを創造していくことが主流のこの時代に逆張りの「なくしていく」という理念のもと気持ちよく会社経営をしている。とにかく制限と責任が嫌いでエネルギーが溢れ出ている僕は、正社員雇用していたメンバーみんなに独立してもらい1人社長と業務委託の関係になったり、必要な資金は融資は受けずアオハル以外の会社で事業作って成長させて売却することを繰り返すことで最速で資金を作ったり、小島有史らしくスッキリさっぱり生きれているなと自分で思う。


「エネルギーを阻む全てをなくしていく」

今の小島有史にあるVISION。何かつくりたいのではなく、余計なものをなくしていきたい。多くの人は余計なものをかかえすぎているし、そうなってしまう要因も余計なモノ・コトが多すぎるこの世の中にあると思っている。だから私の仕事はどこまでいっても壊す、手放させる、吹き飛ばす、0にする、なくすことにある。なのでコーチングの対象者もスタートアップ起業家、ベンチャー経営者、1人社長、個人事業主、もしくはこれらになるであろうエネルギーがある人。エネルギーがあってすでに動き出し、前進しているからこそ外圧や「やらないと」の新たな泥(どろ)が次々についていく。閃きや思考を阻むその泥のような解釈、外圧をセッションで毎回スッキリさっぱりさせ、1人では生み出すことができなかった未来のGOALを設定し、内部表現を書き換えエネルギッシュな行動、思考に変えていくお手伝いをすることが小島有史コーチングのバリュー。

Want toに生きる。これを誰よりも体現し続ける。
今は株式会社GRIT VENTURESという会社を通じて、あらゆる可能性を持ったベンチャー企業をエンパワーメントし、共にリスクを背負い挑戦し続けていることが何よりも楽しい。何事もハードに、好きにやろう。

 

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株式会社GOAL-B最高人事責任者/コーチ。 大学卒業後22歳の時に「もつ焼き ふじ屋」をOPEN。2年で4店舗を展開する業態を作り上げ、年商2億円の業態に。その後コーチングに出会い本当にやりたいことの探求が始まる。トレーナーとコーチ、コンサルタントとして2年間活動した後、GOAL-Bにジョイン。