「変わりたい」と少しでも思う人を変えるきっかけをつくる。 | 仁井田紀之

正直に言って、こういうの書くのはめちゃくちゃに恥ずかしいです。
いつからかわかりませんが、自己開示であったりに対して異様な抵抗感が生まれました。

バカにされたりすんじゃないか、とか。
お前くらいが何言ってんだ、とか。
自分の人生への後ろめたさみたいなのもあります。

ただ、近くで自分のありたい姿に挑戦してる人、何かに向かって進んでる人を目の当たりにして…この記事を公開することにしました。

遅くなりました、仁井田紀之です。
このnoteでは、僕のこれまでの27年間の人生と学びを時系列で書いてます。
今何かに不足感を感じていて、変わりたいけど、一歩踏み出せない。
そんな人がこのnoteを読んで勇気を持ってもらえたら嬉しいと思って書いています。

小学校

みんながやってないから、サッカーをやる。

幼稚園からの友達が、みんなバスケをしてた。
小学生の東北大会で3位とかだったし、僕も遊びでやってていい感じだった。
一緒にやろう的なことも言われたが、みんなやってるから嫌だな、と小学校5年生からサッカーを選んだ。

体は同学年でもかなり大きく、足はチーム1くらい速い、声は大きいしリーダー気質。
だけど、小学校2年生とかからやってる子達にボロボロにやられ、足首を怪我したふりして休んだりした。

ただ、この逃げたって経験が恥ずかしくて2週間くらい落ち込んだ。
パワーだけはあったのでロングキックを右左誰よりも練習して、センターバックを任されるようになった。

最後は優勝チームに予選で負けて県で8位。
この時の経験で、負けず嫌いで影で努力できることと、自分のリーダーシップの強さに気づきだした。
中学では県で絶対優勝すると意気込んで地元の中学に進んだ。

中学

全然真面目にやらないサッカー部

中学進学してもサッカーへの熱はあった。
ただ、中学はなおさらヤンキーの多い地域で、ヤンキーの先輩がいるチーム。
練習中「シュート打っていいぞ」って言われるけど、ゴールの真下にリーゼントの先輩が座っててキックを蹴れない。

2年、3年になるとみんなゲーセンに行ってしまい練習には5人とかしか来ない。そんな弱小チームだった。
僕はシンプルにサッカーが好きだったので一度も休みはしなかったが、最後の大会は地区の予選の2回戦で1-10で負け。

仲間も泣いてたし自分も泣いてたけど、努力をしないで泣いてる自分に本気で腹が立った。
小学生の時は同じような運動能力で同じように中学校で生活して、バスケ部は県で優勝。自分らは努力もせず地区二回戦負け。
この時、環境の影響がでかい事に気づいた。

また、うまくいかないことよりも、本気でできないことが嫌だ、って理解した。
高校では、試合に出れなくてもいいから強いチームで部活しようと思った。

マッチョになった幼馴染との出会い

高校どこに行こうかなと迷ってたある日、数年ぶりに幼馴染に会った。年は3個くらい上で、すでに高校生だった。
何より身長が185cmくらいで体重100キロ。ちょっと前までバトミントンやってて細かったのにめちゃくちゃデカくなってた。

「今なにやってんですか?めちゃデカくなってますね!」
「ラグビーやってるよ。高校のオール宮城の先生いるから紹介しようか?」
「お願いします!」

当時僕は175cm、58キロ。
ラグビーをやったことも無いのに、紹介されたのは県で2位のがっちり強いラグビー部のある高校を紹介してもらった。

ラグビーもやってない中学生が、県で2位のチームに1人で見学に行った。
そして、先輩たちの前で「僕この学校受けてラグビー部入ります!」と言った。この瞬間に進学校を決めた。
正直、勉強は苦手じゃなかったので、適当に勉強して、みんなとおんなじ偏差値50くらいの高校行けたらいいかな〜と思ってたが、ラグビーがしたかったので猛勉強して偏差値63の進学校に入学した。

この時に「やればできる」「人生は自力で変わる」ってことを痛感した。

高校

リーダーとしての資質が発揮される

高校ではクラスの体育祭リーダーみたいなのをやって優勝したし、文化祭でも夏休みにクラスの男子を巻き込んで取り仕切って優勝した。
ホームルームの1時間で、自分のクラスを3つくらいにパート分けして、最後5分くらいで合唱を成功させたり、自然とリーダーができるようになっていた。
(自分は死ぬほど歌が下手、というかバス以外出ない。中学の合唱コンクールは歌わなくて良いと言われるほど。)

仲間のために「マジで死んでもいい」と思えたラグビー生活

ラグビー部に入ると決めてからは、とりあえず毎日腕立て100回をして、58kgだった体重を63kgに増やしラグビー部に入部した。
同期はラグビー経験者こそいなかったものの、中学時代に何かのスポーツで実績を残してた仲間やキャプテン経験がある仲間ばかりだったのに、キャプテン経験のない自分がキャプテンになるんだ、って入学時から何故か思ってた。

とりあえず178cmくらいに伸びて63kgでは話にならないので、米を毎日7合食べて体重を増やし、自主練もしまくって、練習中も声だけは出していた。
2年の時もちょっと試合に出るくらいと、上手くもないので背中で見せよう、と、努力だけは誰よりもした自信もあった。
そして、仲間と先輩から姿勢を買われ、キャプテンになった。歴史あるチームでキャプテンになれて、嬉しかった。

ただ、監督が超怖かった。
「全部に全力」を地で行く約40歳で、1mmでも手を抜くと極端に怒られる。
口癖は「キャプテンがちゃんとしねぇからだろ!」試合中も大声でめちゃめちゃ怒られすぎて、東北大会で運営から「君が仁井田くんか。あんまり呼ばれてるから覚えたよ」なんて言われるくらい怒られた。

キャプテンとして初の総体では「FWのなかでお前が一番悪かったぞ」と監督に言われるくらいにはパフォーマンスが悪かった。
そこから朝早起きしてタックルの自主練をするも自主練中に肩を脱臼。
他にも怪我が多く、自分のプレーは大したことがないし、怪我で練習を抜ける自分にチームが付いてこない気がして、焦った。
寝ようと思って目を閉じると先生の声が聞こえてきて、寝れなかったり、1ヶ月下痢をし続けたりもした。

自信はどんどん無くなっていったが、筋トレ、夕飯後ダッシュ。
大晦日の大雨の日も走りに行った。正月こそチャンス、と、年明けの瞬間から西暦と同じ数(2012回とか)腕立てをしてた。

それでも「キャプテン次第でチームは変わる」そう本気で信じてた。
能力は高いが個性も強い仲間を、自分が同じ方向に向かせる。
全ては17年連続優勝してるチームに素人集団が勝つため、高いレベルの練習を要求するためだった。
と、同時に、不安を解消するために行動しまくることを覚えた。

入学時(ほんとの最初)はトップくらいだった成績もしっかり100番台半ばに落ちた。
それでも、優勝するには17年連続の競合を倒さなきゃいけない。能力の差より、チーム力で決まる、つまり、自分次第でこのチームの結果が決まるって思って毎日必死だった。

その頃、チームから3人だけ選出されるオール宮城に僕が選ばれた。
これは謙遜ではなく自分でも他にうまいのいるのに何でだろう、と思いつつ嬉しかった。(怪我して参加は辞退)
63kgだった体重も83kgまで増え、やっと、実力も伴ってきたと思えた。

そして、死んでも良いと思えた3年最後の大会。花園予選の決勝。

模試の日と被ってたけど、何人もサボって見にきてくれた。
相手は17年連続優勝しているチーム。経験者ばかりで、例年決勝で40点差くらい付いているのを見てきた。
僕はキャプテンとして「大敗はしないけど、勝てるかどうかギリギリだな。」と思ってた。
両肩の脱臼癖が酷く、足首も肩もガチガチに固めての出場。

前半、しんどかったけど、落ち着いてはいた。
意外なところで仲間がトライを取って、仲間が大喜びしてるのを見ながら、「次はなにをしよう。」って冷静にずっと考えてた。
そのまま、前半を勝って折り返した。

ハーフタイム。先生がなにを言ってたかは覚えてない。
だけど、点差に余裕はなかった。一本で逆転される点差。

それでも、例年勝ってるなんてことは無く、今年が違う空気なのは分かってた。
ハーフタイム終了間際、先生を安心させたかったのか「絶対勝ちますよ!」って言ったのは覚えてる。

後半開始。ここからは一瞬だった。
本当にゲームに没頭してた。後半途中に逆転され、本気で死んでもいい。命削れてもいい。だから勝たせてくれ。心からそう願った。

そして、ラストワンプレー。ボールを取り返せず、結局相手チームが18年連続優勝。
僕がキャプテンとして2位の賞状をボロボロ泣きながら受け取ったのが今でもYoutubeに残ってる。

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終了直後、恩師に泣きながら謝った。仲間にも「ごめん」と本気で泣いた。もっとできたことがあると後悔した。ただ、
ずっと、怒られてばかりのキャプテンだったけど、最後の最後、親御さんとかいる前で、恩師に「良いキャプテンだった」とやっと褒められて涙が止まらなかった。

親御さんとかも負けたのに、何か安堵ような表情をしていた。
この時にやっと、負けても残るものがある、っていう意味がわかった。

あとあと聞くと、すごく体の小さい後輩が、僕のポジションをやりたいって先生に言いに行ったとも聞いた。
この時に「あり方」で人は感動するし、価値を与えられるんだな、って思えたし、この先生のおかげで、本当に自分の弱さを知った。
そして「全力」の意味を理解できて、自分は「誰かのため」に頑張れることも理解できた。

大学

高校の恩師に「学校の先生に憧れたので地元の教育大に行く」と言ったら、
「教育大学じゃなくても教員免許は取れる。お前はいろんな人間に会え。」と言われた。

僕の家は貧乏で、妹は私立が決定してたので家から通えない大学は絶対ダメと母親にブチ切れられたが(僕が中学までグーで殴られるほど超気の強い母親)、恩師が説得してくれた。
正直、僕のラグビーの能力は足りなかったけど、強いチームでラグビーを続けたかったので、当時ラグビーで日本一だった筑波を受けた。
判定はBだったし、受かると思って、決勝戦った相手とかと10人くらいで僕の結果を見たが、落ちた。
そして農業をやってた祖父の影響もあり岩手大学農学部に進んだ。

1年次:アメフト部に入部

といっても、ほとんど勉強はしないで筋トレとアメフトに打ち込んだ。
アメフトを始めた理由は簡単。高校のラグビー部でめちゃめちゃ尊敬してた同じポジションの先輩がその大学でアメフトをしてたから。
話を聞くと、岩手大学は東北リーグでずっと2位。県でずっと2位だった自分とピッタリ合って、アメフト部に入り、練習に打ち込んだ。
1年生から試合に出してもらったが、大事なところでキックを外して、4年生を勝たせられなかった。

2年次:幹部になる。が、能力は足りない。

2年で幹部に選ばれた。ウエイト中に喋ってる先輩に「喋ってるならでてってください」とか言っていた。
責任と能力のギャップ。幹部らしくしなければ、と焦ってたんだと思う。
ちなみに関西のオールスターに東北枠で行けるチャンスがあり、手をあげて関西に行って、西武ドームで試合出て、けちょんけちょんにされた。

3年次:前十字断裂。キッキングのリーダーとして何もできない

能力の高い先輩が集まってたし、自分もOF、DF、キックで試合に出て、いい感じだった。
オープン戦では優勝チームに勝ったりもした。「今年こそ」と、イケイケどんどんで練習していた3年夏、僕は膝の前十字を切った。

全治8ヶ月。手術をしたら絶対に間に合わないのは分かってた。スピードが必要なポジションだったし、キッカーの利き足の右足。
先輩に、コーチに相談して、手術をすることにした。キッキングリーダーとして運営だけに回ったが、僕のアサイメントの穴を突かれたりして、この年も先輩を勝たせることはできなかった。自分の戦略性の弱さに嫌気がさした。

4年次:キャプテン不在でギリギリの復帰。再び前十字断裂。

僕は副将になった。ただ、キャプテンが血液系のガッツリした病気になった。
チームの精神的支柱の不在。キャプテン不在の中、怪我で練習をまともにできてない僕中心にチームを運営した。
幸い、仲間は理解してくれたが、能力のある後輩が聞いてくれないこともあった。想いを伝えるしかなかった。

走れるようになってからは、ポジションを変え、死ぬほど自主練した。練習後に一時間はヒットし続けた。
どう考えても、あの時の友達は本当にしんどかったと思う。

夏合宿前々日。電話が入った。
高校の友達が海で行方不明。僕が怪我した時に地元で迎えに来てくれて、ちょっと前に一緒に新潟旅行したような仲だった。
よく覚えていないけど、大泣きしながら地元に帰って、探したけど無駄だった。

「この時に、「人生は有限」だと本気で思った。もっともっと全力で生きないといけない。」と決意した。
それからずっと携帯の待ち受けは彼との写真にしてる。

夏合宿でフルコンタクトに復帰。
リーグ戦では自分の中のランをゴリゴリに要求した。2節まで連続してタッチダウンして、いい感じに復帰したな、と思ってた。
が、2節の最後にタックルに入られた時に、明らかにバチン、と音がした。膝の靭帯が切れた。
接戦で、控えの後輩も怪我をしていて、もう点が取れる気がしなかった。

一本でも取られたらやばい。
DFでも出れない。
そう思って立とうと思ったが、もう無理だった。結局、ギリギリ勝てた。

第3節は、靭帯切れて2週間後。
ガンツみたいなサポーターを用意して、ここ取れなければ負けるという場面で1プレーだけ出た。が、当たり前だけど狙われ、負けた。
でもまだ、優勝できる状況ではあった。

最終節は、優勝決定戦。
医者からは「もう靭帯ないから、次膝切れたら終わりだよ。」って言われたけど、オフェンス、ディフェンス共にほぼフルで出場した。
座薬を入れて、痛み止めを飲んでサポーターとテーピングで試合に出た。
もう走れなくなるのはどうでもよかったし、走った。

結局、ここでも1本差くらいで負けた。
つまり、ラグビーでも、アメフトでも、僕はギリギリで優勝することはできなかった。

この、高校大学で、努力しても優勝できず終わったこと。
親友を亡くしたことで悔しいとか、悲しいとかはあった。

だけど一番学んだのは「終わりがある」ということ。
大学生活、部活以外はふつーの大学生をしていたけど、人生は短い。
「終わりがある」という感覚は強く残って、常に挑戦できる方を選ぼう。
やらないと人生もったいない。
と思うようになった。

大学院

赤信号のおかげでインドへ

大学中も、将来は教員になると思っていた。
というのも、高校の楽しかった話を大学の友達にすると「そんな良い先生いなかった」「高校つまんなかった」みたいに言われて、
「めっちゃもったいない。やっぱり俺が先生になって楽しくする。」
「俺が教えたら年間150人の生徒に出会える。めちゃくちゃ多くの人に影響を与えられる。」と思い、母校に実習に行った。
そこにまだ恩師がいたので、教員になると伝えた。

すると、「教員もいいけど大学院か就職してそれからでも教員になれるぞ」と言われた。
その先生はラグビー以外も全力だったので、能力も高く、外部で講演とかをするような先生だった。
いろんな経験をしていて生徒に愛されていたし、何より社会人経験のある先生だったので説得力があった。

そこで、社会人になることを視野に国際開発学を勉強しに東北大の大学院に進むことにした。
外国人ばっかりで授業は英語だったりもした。
ただ、「人生に終わりがある」と学んだはずなのに、結局目標も持たずダラダラとしていた。

挑戦できそうなのがあれば、突っ込む。

「人生は短い」そんなモヤモヤした焦りを持ちながら数ヶ月経ったある時、原付に乗りながら赤信号で止まると、ある看板を見つけた。

「海外インターンの合同説明会」

もう説明会は始まってるけど、すぐに原付を降りた。
そして参加、色々説明されてたが、どの団体もTOEIC700点とか求められる。当時僕は550点。
インターンの応募期限とTOEICの日程的に今から受けて間に合うのは無かった。
ただ一個だけ、TOEICの話が出て来ないのがあったので、手を挙げて

「TOEIC何点とかありませんか?」と聞いてみると
「600点くらいが目安ですが、点数は関係ないですよ」と。

繰り返しになるが僕のTOEICは550点で、もちろんさっぱり話せないのは分かっていた。
だけど「人生にはいつか終わりがある」「やらないと後悔する」と判断。
カフェに行ってすぐに志望理由をGoogle翻訳とかを使いながら英語で書いた。
そして、高校のめちゃくちゃ英語ができる友達に突然連絡して、添削してもらった。

志望理由は500単語を4つ。
そのうちの1つで、赤ペンが入ってないのが3行目の「you」だけだった時には自分の英語力の低さにさすがに笑った。
でも行きたかったので面接で熱意を伝えて、一次を合格。
「国は?」と聞かれ、行けるなら研究の分野かつ一番極端なところとしてインドのど田舎を選んだ。
(みんなインドの首都らへん行くし、1人だけどいいの?と聞かれて、笑顔で「はい!」といったが案の定しんどかった)

その後、2次試験のような形で、8000人くらいいる(らしい)インドのグループ会社のCEOとの電話面談。もちろんボロクソ。

インド人CEO「お前英語できなさすぎるだろ、何もできないぞ」
僕「あと3ヶ月ある。イギリス人の先生と俺は毎日喋ってる。絶対どうにかする!」

と言って…合格。ここから猛勉強して、インドに着いた時にはどうにか会話ができてCEOに褒められたのはいい経験だった。

結局、インドに行ってからは実地調査などに参加させてもらいながら、会社に友達を作ったり、女性が弁当を急に作ってくれたり、CEOの家に招いてもらったりですごく愛されていた。ただ、インターンとしての成果はほぼ残せなかった。

3ヶ月がたち、爺ちゃんが危篤になり急遽1ヶ月くらい早めて帰国した。
それでも、英語できない状態で行き、日本人がいないところで、洗濯機も無い、文化も全然違う、働き方も全然違う。
そんな中でも、行ってみれば、英語で資料を作ったり、プレゼンをしたり、厳しい上司にプライベートの宗教の集まりに連れて行って頂いたり…半年前には想像できないような環境で、半年前には想像できない経験と成長ができた。
その時に、「人間、やればできる。」という自分の信念が強化された。

ただ、国際開発は、利害関係とかもあって、必ずしも効率的な選択をできない難しさも学んだ。
大きな仕事もしたいけど、もっと個人の裁量で成果を出せる環境を選びたい、そう思った。

社会人同様に働いたインターン生活

帰国して大学院生の当時、就職に関して、同い年や先輩の話をよく聞いていた。
ただ、人気企業ランキングで1位とかトップ10くらいに入ってる友達や先輩たちが、「金曜の夜が最高」「日曜夜くらいから最悪」とか言うし、めっちゃ尊敬する社長がいる会社に入れた友達も「仕事は面白く無いから辞める」と。

「いやいやいや、人生の大半を使うのに給料高くても、モテても、絶対嫌でしょ…。」って本気で思った。(今思うと、その先の仕事で何してるのかとかは考えられてなかった)
そして、中学の弱小サッカー部、本気のラグビー、アメフト部を経験して、有名さとか給料は無視。
情熱がもてて、かつ、周りも情熱がある会社を選ぶことにした。

そんな時、今の会社に出会った。当時僕は宮城に住んでいて、会社は大阪。
インド関連で東京に行くことが多く、今の会社の短期インターンの広告をたまたま見つけた。
挑戦的なコピーで、「怪しいな〜」と思いながらも、ネット×教育事業をやってるし、何より気になってしまったので応募。
後から聞いたら倍率20倍だったそうだが、全く手応えはなかったのに奇跡的に受かった。

行ってみると社員の人たちがめちゃめちゃ楽しそうに仕事をしてた。
仕事=人生と本気で思ってる人たち。

僕みたいな遠隔地での長期インターンは採用してなかったものの、応募して、受かった。
そのまま会社初の遠隔インターンとして働いた。(僕が聞いてなかっただけかも知れないが、給料も良かった)

会社の中にはめちゃめちゃめちゃめちゃ優秀な上司たちも仲間もいた。
負けず嫌いだったし、もうどんどん仕事させてくれ!と、朝6時、7時〜仕事→研究→夜→仕事みたいな働き方をした。
受験勉強くらい隙間時間も本を読んでいたので、母親に「あんた、そんなに働いてどうすんの?」って言われた。
フラットな会社なので、成果を出すほどすごい先輩と仕事の話で絡めと思うと楽しかった。
インターンでも手をあげれば仕事を任せられる環境が本当に楽しかった。そして、新卒でそのまま入社をした。

社会人

誰に感謝されてるのか?迷い、情熱を見失う。

新卒から半年。今までの頑張りが認められ、採用プロジェクトのオファーを頂いた。
コレは基本社長と2人で仕事ができるめちゃくちゃ素晴らしいチャンス。

もちろん、採用なんて未経験。
でも、今までの経験から「量をやればトップ層の成果は出せる」し、何より社長と働けるのなら、と、オファーを受けた。
インターン、新卒に加えて今まで会社でもほとんど手をつけていない中途採用もやることになった。
特にノウハウも溜まってなく、何をしていいのか分からないので、毎日毎日朝からカフェに行き、23時24時まで仕事をしてた。
多くの本、先輩や仲間、時に紹介して頂いた人に助けてもらいながら、いろんな経験をした。

・自分が作った求人広告が大手(多分いたはず)を抑えてランキング1位を取った。
・中途採用イベントを企画したりYouTubeを撮って流して良いコメントも貰った。
・結果、中途採用の3ヶ月間の応募が前年比700%になったりもした。
・インターンの離職を減らすために全員のレポートを1人でフィードバックしたり、個別に連絡して面談もした。
・インターン3日前の土曜日に緊急事態宣言が出て独断で「オンラインにします!」と学生に連絡。そっから60時間くらいかけて死ぬ気で用意したこともある。

この時も、正直やれることないと思ってた採用で「やればできる」が強化された。

また、同時に新規事業も行うようになった。
自分で大きいカメラを使って撮影して、ライブ配信して、動画編集もした。広告も作った。小さい改善なども重ねて、少しづつ進んでいたんだけども…

ネガティブなことを考える時間が長くなっていた。
採用した学生が成果出すまで自分の仕事がうまくいったか分からないし、お金もかかってるし、新規事業も全然うまくいかないし。
誰かに感謝されてるんだろうか?貢献できてるんだろうか?と。

そして、どんどんと朝起きれなくなってきた。精神的に調子が悪くなった。
頭が回らないので仕事も終わらず、ひどい自己嫌悪に陥いった。

でも、それより一番嫌だったのは、全然仕事ができなくなっていくこと。やりがいを感じられなくなっていた。
大好きな筋トレも月に2回しか行かなくなった。

画像1

左はメンタルやられるちょっと前の2019年12月末、新婚旅行のキリマンジャロ。筋トレサボりすぎて85kgくらいまで落ちてた。
右は2021年2月。アメフトをしてた時の95kgまで戻した。

認知行動療法の本を読んだり、食べ物を変えたり、散歩も瞑想も試した。
それでもぼーっとしてしまう。そんなある時、大阪城の前の横断歩道を渡ってたらクラクションを鳴らされた。

顔をあげると思いっきり赤信号。

音を鳴らされても体が動かず、さすがにおかしいかも、と思い心療内科に行った。
「なんか変なんですよね」とお医者さんに言ったら1ヶ月休職するよう書かれた紙をもらった。

この時、メンタルが強くて、努力だけはできると思ってた自分のセルフイメージが完全に崩れた。
「消えたい」と思って、夜中にマンションの8階から外を見て。そんな自分が嫌になった。

結局休職はしなかったが、課題は仲間がいなく、一人で仕事をしていたことだと考えた。
もともと夢見がちでミッションベースで人のために頑張るのが時だった僕は、数字を追うよりも仲間がいてやっとガンガン進める、そう考えてセールスに戻らせて頂いた。

そして、仕事を再開。最初は良かったが没頭できない。成績もどんどん落ちた。達成率が80%、60%と落ちて、32%になった。
「もう俺は本気になれない。ダメだ、辞めよう。」と思い、上司であり、僕が入社したきっかけでもある人に相談した。

「そろそろ本気でやらんと、クセつくで」

没頭できないとか言い訳をして、自分が環境に大甘えしてたことに気づいた。
明確な目標も持たずに、努力はしてるからどうにかなるだろう、とふわふわしていた。
同時に、他の先輩も僕に声をかけてくれて、俺んとこに来いって言ってくれた人までいて、申し訳なくなり、改めて頑張ることにした。
とはいえ、頑張ると決めたものの今までの延長でやっても成果が出ないような気はしていた。
3年間で1000冊以上本を読んだし、セミナーにも80万円くらい使ったし、働いてる時間は長く、いわば、頑張り方が悪かった。

長畑さんとの出会い。子供と自分の違い

心を入れ替えて1ヶ月。下降から復活でき始めたタイミングで、子供が生まれた。

ちなみに僕のセルフイメージは小学校くらいから「太陽」。
太陽が好きで、高校生になってもひなたぼっことかしてたので、相手チームに外国人と思われるくらい黒かった。
なので子供は太陽の子。存在するだけで周囲を明るくして欲しい、そう思って陽和(ひより)と名付けた。

ただ、僕のセルフイメージは「太陽」なのに、知識や何かを頭に貯めて、どこに向かってるのかも分からない。
人生を楽しんでなく、全然誰も元気にしていなかった。

必要なのは、How toやインプットではなかった。
一番没頭できた時、楽しんでた時を思い出して…課題はhow toじゃない。必死さ、気持ち、在り方だ。と。

この時に、熱い、面白い人に会おう、とツイッターのアカウントを作った。そして長畑さんのYoutubeを見かけた。
旧帝大卒、アメフト部、いい会社に入ってるのに本気になれない。もがいて、這い上がろうとしいてる。そんな状況に圧倒的に共感した。

そして、長畑さんがオンラインパーソナルを募集しているのも知ってすぐに連絡した。
パーソナルトレーニング兼コーチング、とのことで契約。

そこから、2ヶ月で人生が上向いた。

・ダイエット2ヶ月で約97kg→90kg以下の目標に対して、59日で96.4kg→89.8kg。と達成。
・仕事の目標達成率も、70%→150%と大幅に改善&達成。

「あり方」で結果が変わるのか?と僕も疑ってたが、不思議と良い姿勢で働いてるとチームも違う仲間が話をくれたりもしたし、前向きなだけで脳の回転も全然違かった。
別のチームの先輩からも「めっちゃ良くなったって聞いてるよ」と電話で言われたりもした。
と、同時に、コーチングを受けて自分が知らなかった自分がどんどん分かってきた。

自分の価値観

・他人のために体を張るのがカッコいいし、好き。
しんどい中で人のために体を張れる人間は本当にカッコいいし、信頼できるって思っていることに気づいた。
だからラグビーも、アメフトも本当に好き。少し前に福岡の先生から新潟の高校ラグビー部を紹介いただき、コーチをしているが、本気でラグビーすることが人生を変えると信じているので「花園に出る」という目標を改めておいた。

・数字ではなく「人」「ミッション」のための時に頑張れる。
自分は単に数字を追いかけるのが苦手なことはわかった。
逆に、誰か特定の状況で困っている人がいたり、ラグビー、アメフトで誰かが感動してくれること、友達の転職相談(転職決定*2人!)人を紹介したり、行動の先にある感情的なもののために自分は必死にエネルギーを使えることに気づいた。

余談だけど、結婚式の余興を2回連続、1人でプレゼン形式でやった。
仕事も忙しかったけど、「喜ばすぜ!」と寝る間を惜しんでスライド作って協力してもらってSNSでDM飛ばして昔の仲間に話聞いてエピソード集めて、話の構成しまくって用意した。偉い人に「君めっちゃいいね」と握手を求められた。

・人に良い影響を与えられてる実感が自分には大事。
自分のダイエット中、体重を増やしたい、ダイエットしたいって友達から連絡が来て、オンラインで6人のサポートを始めた。
前に受講した原田隆史先生の目標設定のセミナーや「望めば叶う」などを参考に、ワクワクする目標設定が一番大事だって考え、相手のそれを引き出そうと話してる間がすごく楽しい。お金をもらわなくてもめちゃめちゃ考えられるし、それで相手が変わることにすごく価値を感じた。
その話を長畑さんにしたら、一種コーチングですよ。って言われて、筋トレだけじゃなくコーチングも好きかもしれないと気づく。(とは言え、自分がコーチになるつもりは今のとこない)

・全部やっていい。
さらに、挑戦するパパコミュニティDADDIESに入り、小島さんに相談する機会があった。
「やりたいことたくさん出てきました。決断できないときはどうしたらいいでですか?」
「1mmでもやりたいと思ったら、全部やりましょう。」

これから達成すること

今、27才とちょっと。
振り返ってみると、ラグビーでも、社会人でもコーチングでも「人」に影響を大きく与えられて人生が変わってきた。

蓋をしてた自分のやりたいことが見えてきた。
良い関わり方をしてもらえたおかげで、自分もポジティブになれた。
挑戦するパパコミュニティDADDIESのような場にも出会えて、挑戦する人を見て、自分の視座をあげることができたし、良い意味で焦っている。

正直言って、自分の人生なんて宇宙の歴史に比べたらチリみたいなもの。短い人生で何ができるかとか、何かを残すとかは分かんないし、考える必要もないかもしれない。

だけど、コーチングを受けて自分自身の可能性に許可を出せた。

【これから達成すること】大枠ではこの2つ。

1.変わりたいと1ミリでも思ってる人を変えるきっかけを作る。
2.楽しく仕事ができる世界を作る。

・筋トレで人生を変えるきっかけを作る。
・コーチングをもとに目標設定するジムを作りたい。
・高校ラグビーの指導で花園に行く。
・地方の良い商品をネットで販売するサポートもしたい。

特に2は今後絶対やりたい。
採用をやったり、優秀な友達がいい企業に入ってつまんなそうにしているのを見て、俺より能力あるのに勿体無いな、、と思うことが多かった。
なので、入社前に「want to」を見つける手伝い、入ってからのミスマッチを無くすためのインターンの整備、入ってからミッションを見つける手伝いもしたい。

結局、どこまで行っても人が好き。だし、それが強み。

適当な中学生活から、幼馴染の影響でラグビーをはじめ、ラグビー部の恩師のおかげで仲間のために全力で頑張れた。
大学でも仲間、先輩のために全力を出せたし、会社員になっても人に惹かれて仕事をしてた。
コーチングと先輩の力で落ちてたところから前向きな自分を取り戻すこともできた。

できなかった自分が、少しづつ可能性を信じてもらって、ここまで来れた。
ただ、環境によって簡単にブレたり、精神的に上下する自分自身。自分自身の可能性は信じきれてないところもある。
多分、できない自分を馬鹿にされたくない、小さなプライド。それから逃げてきてる。

だからこそ、今度は自分の人生を使って、やればできることを体現する。人に良い影響を与えたい。

全ての人の可能性を最大限引き出せる存在になる。

 

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