はじめまして。ノブヒロと申します。
僕は大阪・高槻に住む新卒3年目24歳の会社員です。
これまでは副業として、【AKIOBLOG】と【レッツゴーなぎら】のYouTubeチャンネルの運営と動画編集を行っていました。
このたび、僕は10月末で新卒で入った会社を退職し、11月に株式会社GOAL-Bの11人目の社員として入社します。
特筆することのない学生時代を過ごし、普通の会社員として働いていた僕が説明不要の刺激的な環境に身を置けることを心から感謝しています。
目次
この記事の目的
この記事は、僕がどんな人間で、どんな思いを持って人生を過ごしてきたか。それを書き記した私の自己紹介を目的としたものです。
株式会社GOAL-Bには、社員全員がこのような自分の過去を振り返るnoteを書く文化があり、自分も入社にあたって書かせていただくことになりました。
正直にお話しすると、僕は自己開示がとことん苦手な人間で、こうしてネット上で自分の身の回りのことを話す日が来ることになるとは思いませんでした。
大学時代以降、親友と呼べるほど同じ時間を過ごした友だちにすら言えなかった、オタクだった僕の中学生時代のことも全部書いています。今も恥ずかしい気持ちがありますが、思えば現在の僕を形成するとても重要な期間だったので、しっかりと書き起こしていきたいと思います。
僕がこの記事で伝えたいこと
「小さな挑戦1つだけで、人生はもっと面白くなる。」
新卒2年目の春、23歳の時にふと自分の人生を見つめ直す機会がありました。
時間の使い方に疑問を持ちはじめた僕は、そこからいろんな挑戦をするようになりました。そして、いろんな挑戦の先に、現在こうして会社をやめて大きな夢を追いかけるようになった自分が存在します。
まだ何も成し遂げていない僕ですが、読んでいただければきっと僕と同じような新卒社会人生活、同じような思い、同じような人生への疑念を持っている人はたくさんいるんじゃないかなと勝手に思っています。
僕はそんな同じ境遇の人に、少しでも何かに挑戦する勇気を与える存在になりたい。
そう思いながら、これからの人生を過ごしていくことを決めました。
ぜひ、ご感想やいいねをいただけると嬉しいです。
生誕と、僕の家族の構成について。
僕は1996年2月9日に、兵庫県西宮市の病院で生まれました。
出生体重は4565g。
「この子は将来、立派なお相撲さんになる」と周りに言われるほどブクブクに太った赤ちゃんだったそうです。
僕は男三兄弟の次男で、3歳上の兄と7歳下の弟がいます。
兄には2歳くらいまで顔をべろべろに舐めまわされ、3歳以降はよく喧嘩して頭にいくつもタンコブをつくっていました。
おそらく、僕が現在顔中びっしりヒゲまみれで、この頃の記憶がないのは当時の兄の愛情表現のせいだと思っています。
兄はこの頃から根っからの大将気質で、いつも同級生の中心にいました。
兄弟喧嘩で僕が勝った記憶は一度もありません。一応反抗はするけれど、兄に勝とうとは思わなかった。そして、一緒にいる時は兄と喧嘩を起こさないよう、無意識的に顔色を伺いながら過ごしていました。
この「人の顔色を伺う」性格は、大人になってからも身体にしっかりこびりついていました。
小学生時代:創作に夢中になる。突然すぎる家庭環境の変化。
・小さい頃からインドアの遊びを好む
僕が3歳になった頃、父の仕事の関係で神奈川県横浜市に引っ越すことになりました。僕は横浜で小学5年生の春まで過ごすことになります。
僕はこの頃、【英会話教室】、【水泳】、【少年野球】の3つの習い事をしていたのですが、これらを始めたきっかけは「僕の兄が通っているから」「近所の仲の良い同級生が通っているから」でした。
運動と勉強をほどほどにして、一方で僕が夢中になっていたことは「ゲーム」「漫画」「アニメ」というインドアな趣味でした。
特に漫画は、A4のコピー用紙と鉛筆を使い、自分で漫画を描くほど熱中し、その描いた漫画を同級生に見て欲しくて学校に持っていき、仕舞いには担任の先生に頼み込んで教室の本棚に置いてもらっていました。
当時描いた漫画。いま読むとあんまり面白くない。
この頃の創作物は、うちの実家や学校のみならず、祖父母の家にも作っては配り、作っては配り・・・を繰り返していました。今じっくり読むとむず痒い思いになりますが、この頃から自分だけの想像の世界を膨らませて、それを形にして人に披露することが好きな子どもでした。
「好きこそ物の上手なれ」というように、工作や音楽といった自分を表現する授業の成績は良く、それ以外の授業や、兄にならって始めた習い事たちはからっきし良い成績を残すことはできませんでした。
・家族が4人になる
それから、僕が小学4年生の秋のこと。
僕の父は突然、職場で倒れます。そして、一度も意識を取り戻さないまま1ヶ月後に息を引き取りました。くも膜下出血でした。
突然父がいなくなった我が家は、一瞬にして不安の影が差し込み、笑顔が消えました。そんな状況を見かねた母は「親戚が近くにいる関西圏で家族を立て直そう」と決断。小学5年生の春に、僕たち家族は兵庫県尼崎市にある叔母の家に引っ越すことになりました。
転校後、今まで手をつけてこなかった勉強を頑張るようになります。
成績は常にトップで、先生と母親の勧めもあり、私立中学に受験し無事合格。
大阪にある電車で1時間くらいの距離にある中高一貫の私立中学に通うことになりました。
中学時代:ニコニコ動画に夢中になる。僕の性格を決定づけた期間。
・インターネットが身近になり、インドア趣味に拍車がかかる
僕が通うことになった中学校は家から電車通学で1時間かかるため、さすがにその時間が退屈だと思った僕は、母に携帯電話とiPod Touchを買ってもらいました。
このタイミングで、僕にとってインターネットがとても身近なものになります。当時、どんなゲーム機や遊びよりも、インターネットにのめり込みました。
特に僕が夢中になったのはニコニコ動画でした。今でこそ盛り上がりに欠け、オワコンだと言われることも多いですが、当時は間違いなくニコニコ動画が最盛期で、YouTubeなんて目でもないほど面白いコンテンツで充実していました。
素人が作っているとは思えない巧みな編集技術。
テレビ番組顔負けのお笑い要素に、気を抜いた瞬間に流れてくる、視聴者の秀逸な面白コメント。
面白い部分では、ドッとコメントが流れる一体感。
当時のニコニコ動画は間違いなく最盛期でした。
冗談抜きに、この世のエンタメの最高峰がニコニコ動画だと信じていました。なんなら僕は、今でもあの頃のニコニコ動画が史上最高のエンタメだったと思っています。
すっかり動画に魅了され、日々動画漬けになった僕は、いつしか動画を批評するような視点で見るようになります。
「ここ、もう少し面白くできそうだな」
「ここはもっと間をとってから見せるべきだな」
そんな痛々しい「なんちゃって動画評論」を心の中でしながら、たくさんの動画に触れたのが僕の中学生時代でした。
動画の見過ぎでメガネデビュー。
ちなみに、僕は中学では野球部に所属していましたが、僕は運動神経が悪く、めちゃくちゃ下手でした。
ですが、それでも野球を続けていたのは「野球で活躍する兄の姿に憧れていた」「生前の父が好きなスポーツだったから」という理由が大きかったです。
もちろん楽しく過ごせましたが、僕は運動神経がないことに気づいてからは、もう野球や運動への関心はなくなっていました。
このように、中学生という多感な時期に部活や勉強にのめり込むこともなく、インターネットと動画ばかりに夢中になっていたことは、つい最近まで自分の人生の中で黒歴史だと感じ、大学生以降は友人にもこの時期のことについて詳しく話したことはありませんでした。ですが、この時期は間違いなく今の自分を形成する重要な時間でした。
高校時代:人前で演奏する経験。人生で初めての挫折。
・高校へ進学し、音楽を始める
僕は中学まで続けていたスポーツを離れ、高校でギター部に入ります。
入部当初の同級生は2人。
楽器は2人ともギターで、文化祭のステージまでの練習時間が限られていたこともあり、各々好きな曲を1曲ずつ出し合って練習しました。
僕の選んだ曲はthe pillowsの「Funny Bunny」。
記憶力の良くない僕でも、あの日の文化祭のステージから見た光景は、今でもハッキリと記憶に残ってます。
ライブの時だけ、カッコつけてコンタクトに。
自分の好きな曲を、好きなように表現できる。それを会場にいる全員が注目してくれる。出番が終わったあとは、沢山の人が褒めてくれる。その快感を得た最初のきっかけでもありました。今でもこの曲を聞くと、高校生のときのステージの風景が思い浮かぶほどです。
この演奏のあとは「もっとたくさん、人前で演奏したい」という強い思いを持ちます。
ギター部は毎年文化祭の個室での演奏会だけでしたが、僕が部長になってからはギター部から軽音楽部に姿を変え、バンドをつくって地域の夏祭りでのステージでや文化祭の野外ステージなど、多くの演奏機会を作り出しました。この時、僕のパートはドラムになっていました。
高校近くの、小学校で開かれた夏祭りでの演奏。
・ニコニコ動画への歌ってみた動画投稿
僕の承認欲求はそれだけに留まらず、ニコニコ動画で自分が歌う動画をアップロードするようになります。
しかし、動画は全く再生されず、時間が経てばなんだか再生されない自分の動画に恥ずかしくなり、ついに削除してしまいます。
自信を持って投稿した動画が全く再生されないと、なんだか自分自身を否定された気分になってとても悲しくなったんです。
この頃から動画投稿者へのあこがれと尊敬は強く、「自分もこんな風になれたらいいのにな」という思いをひっそりと抱いていました。
・人生で初めての挫折経験
高校での成績はいつもクラスの中の中くらいに座り続けていましたが、高校2年生の冬頃から「受験」という言葉をよく聞くようになってからは心に火が灯り、国立大学合格を目指して受験勉強に打ち込みました。
しかし、大学受験はうまくいかず、センター試験で希望する国立大は足切り。私立大も前期は全日程不合格でした。
もう諦めて1年浪人しようと思っていたところ、母親に「のぶひろは興味関心がすぐに他のものに移ってしまうから絶対浪人向いてないよ」と話を受け、私立大の後期日程を受験します。そして、最後の最後になんとか合格できました。
最終的には合格できたものの、僕の人生で初めての挫折がこの大学受験でした。
この受験を境に、僕は「挑戦することはかっこ悪いことなんじゃないか」「どうせ自分がやってもうまく行かないんじゃないか」と、理由のない恐れを抱くようになりました。
志は高いけれども、なりたい姿はあるけれども、こういった1つの挫折経験から染み付く「失敗への恐怖」が、人の挑戦を妨げているのかもしれません。なので、僕を含め多くの人が大学受験で「挑戦しない人間」になってしまうのではないかと、今振り返ってみて思います。
大学生時代:失敗を恐れながら過ごす日々と、就活での勘違い。
・ごく普通の大学生生活を送る
高校卒業後、僕は立命館大学経営学部に入学します。
経営学部を選んだ理由は「起業家がかっこいいから、僕もなりたい」という理由だけでした。
ですが、もちろん経営学の授業を受けるだけで起業家になれるわけがありません。
1回生のときこそ、簿記の勉強をして簿記2級の資格を取ったりしましたが、徐々に気持ちは薄れ、大学の友達と遊んでばかりの日々を過ごすことになります。それはそれで楽しい時間が過ごせました。
ロードバイクを買い、よく遠方へ輪行しに行きました。
当時の経営学部には起業を志している同級生もちらほら見受けられました。
ですが、そういう人は「変なやつ」「どうせなれっこないのに」「意識高い系はウザい」と仲間内で陰口を言うような空気がありました。
今振り返ると、僕は周りで挑戦する人を見て、単にうらやましく思っていたのだと思います。
あの大学受験で味わった挫折を、もう味わいたくない。
国立大を目指していたことも、私立大前期を全部落ちてしまったことも、できる限り言いたくない。
失敗をさらけだすのも味わうのも怖くなった結果、すっかり僕は挑戦できない人間になってしまっていました。
・就職活動に対する認識の誤り
3回生の夏。
同級生との会話の中で「インターンシップ」という言葉をよく耳にするようになり、僕はなんとなしに就活に対して意識をするようになります。
そしてこのとき、僕は大きな勘違いをしてしまっていました。
「就活」を「大学受験」と同じようなものだと考えていたんです。
「これまで高い学費を払ったのだから、大手企業に入らなければ親不孝。」
「大手の企業に入ることが正義で、それ以外だと就職してから苦労する。」
このように、「大手企業に入ることこそが正しい道・成功者の道」であると錯覚し、企業の規模の大きさを極端に気にして、まるで大学受験でできるだけ偏差値の高い大学を目指すかのように就職活動を考えていました。
本当にのんびり大学生活を過ごしていた僕は、危機感を感じ取って周りの友達よりも随分早くから就職活動の準備を始めます。
多くの会社のインターンにエントリーシートを提出して書き方を分析したり、SPIテストの勉強をしたり、大学のキャリア相談センターで面接練習を受けたりしていました。
「成功をしたい」というよりも、「失敗することが怖い」という思いが当時の僕を突き動かしました。
来たる4回生の春。
就職活動が解禁すると同時に、僕は一斉に多種多様な業界の大手企業20数社に向けてエントリーシートを提出します。
毎日のように面接を受けながら、だんだん面接の空気感に慣れ、ついに5月には内定をもらうようになりました。
ですが、僕はこの内定をもらった時点でもその会社で具体的にどんなことがしたいのかがイメージできず、そしてそれが「自分が人生をかけて成し遂げたい仕事」なのかなんて考えたこともなく、ただ名の知れた大手企業に行ければいいとだけ念頭においていました。いわゆる大手病です。やりたいことなんて、入社すれば見つかると信じていました。
結果、僕はパナソニック株式会社に内定をいただき、新卒で入社することになりました。同じ大学の同期が文系採用者だけで20数人いたこともあり、安心感もあって、自分の中では納得の行く結果に落ち着きました。
社会人1年目:新入社員研修と、まさかの技術職配属。
・想像とは異なる会社員生活
2018年4月2日の月曜日。
大阪・枚方市にある、会社の大きな研修施設にその年の新入社員全員が集まりました。総数は800人超えで、改めて大きな会社に入ったんだということを初日から実感します。
これまでもそうですが、全く新しい環境に飛び込むたびに「新しい自分」になろうとする自分がいたため、常に落ち着かず、ピリピリした空気を保ちながら研修を受けていました。結果、なんだか終始スベっていた感覚があります。
この研修期間は大人数での飲み会が毎日のように開かれていましたが、もともとインドア趣味の内向的だった僕には苦痛に感じることのほうが多く、この頃からストレスを溜め込んでいました。
その後は大阪・神奈川・神戸の各地を転々として研修を受けて、やっと職場に配属されたのが2018年の9月下旬でした。当時、言い渡された僕の配属は【フィールドSE】という技術職で、企業向けノートパソコンのカスタマイズや障害の対応を行う部署でした。
もともと文系採用だった僕は、プログラミングなどの技術的なことは一切分からず、何なら一生関わることのない分野だと思っていたほどでした。
しかし、仕事内容ではゴリゴリにプログラムを扱うため、職場配属後でもSE職の研修が続きます。
結果、1年目は殆ど研修に時間を使いました。
文系でプログラミング未経験の僕にも職場の方々はとても良くしてくれ、研修期間中は職場の人たちからたくさんの支援を受けていました。
しかし、1年目の最後に組織の再編成が行われ、僕は異動を告げられます。長い時間をかけてSEの研修を終えて、これからが本番だという時期でしたが、あまりSEの業務に関わることのないまま2年目を迎えた僕は新設部署に配属になりました。
社会人2年目:環境の変化によるストレスで疾患。人生の転機。
・環境の変化に精神が耐えられなくなる
目まぐるしい環境の変化に付いていくのが精一杯だった僕は、ついに体調を壊します。帯状疱疹という、精神的ストレスが原因の疾患でした。(画像を載せるのは憚れるので、気になる方はググってみてください)
新設の部署はとても優しい方ばかりだったのですが、年齢差が激しく、腹を割って話せる人が当時いませんでした。
慣れない仕事に度重なるミスと不注意で、よく上司に怒られました。
メンタルなんて、面白い動画を見て腹を抱えて笑えばすぐに良くなると当時は思っていましたが、そんな考えとは裏腹に、僕の身体に目に見える形で変化が現れてしまいました。
「これが自分の正解だ」と選んだ道を進むにつれ、僕は正直、「本当にこれが正解なのか」と疑問を感じていました。
ですが、過去の自分の判断を「失敗」だと認めたくなかったため、自分に嘘をつき続けて無理矢理納得しようとしていたんだと、この時、身を持って気付きました。
この疾患を機に、僕はこれまでの会社員生活では何も夢中になってこなかったと感じ、
「結局自分のやりたいことって何なのか」
と自問自答する日々を過ごすようになります。
・AKIOBLOGとGOAL-Bとの出会い
このように僕が自分の生き方に疑問を持ち始めた頃、YouTubeの急上昇ランクに載る、筋トレ大好きサラリーマンのルーティン動画に出会います。
それがAKIOBLOGの動画でした。
当時バズったAKIOBLOGのルーティン動画。
ただストイックに【朝活→会社の仕事→筋トレ】を繰り返す生活を送るAKIOBLOGの姿が、当時の僕には異常に刺さりました。
他の動画を見てみると、どうやらこの方は月収100万円を目指して副業を4つ掛け持ちしているらしい。
こんなに時間を大切に過ごすサラリーマンがこの世にいたのかと感銘を受け、すっかりその生き様に魅了されます。
「僕もAKIOBLOGみたいに、人生を本気で生きたい」と思い、それからAKIOBLOGの生活を見習う日々が始まります。
筋トレは週に4回行くようになり、朝は早く起きて読書や勉強。ブログも開設します。
このブログ開設から2ヶ月後に、ようやく1円の広告収入を得ることができます。
この収益発生までは会社の仕事終わりや休日の時間を何十時間も費やしました。「たかが1円のために、なんでそこまで…」と思う方もいるでしょう。
ですが、「ブログで稼ぐ」ということは、誰にも雇用されず、誰の指示にも従わず、自分の力で1円を稼ぐことができたことを意味していました。
視野が一気に広がり、僕はこの「挑戦すること」の楽しさを思い出すようになります。
思えば、これまで僕は小中高生の間、いろんなものに好奇心を持って取り組んでいた日々を過ごしていましたが、それも一種の挑戦でした。
小学生の時に漫画を描いていろんな人に配ったこと。
中学生の時にニコニコ動画に出会い、後に歌ってみた動画を投稿するようになったこと。
高校生の時にはギター部でバンドを組んで多くのステージに頼み込んで演奏したこと。
これらの全部が挑戦で、無我夢中で。
上手い下手なんて一切関係なく、ただ自分が心の底から楽しい感情にあふれていたことを思い出します。
そしてこの時、確かに僕は挑戦する日々こそが人生を彩ることに気がつきました。
・さらなる成長を求め、動画編集の勉強を始める
そこから「さらにいろんな挑戦をしたい」と思い、はじめたのが動画編集でした。
中高生時代に、あんなに動画にかじりついていた人は周りにいなかったこともあり、「動画を面白く見せる」ことは未経験ながら自信がありました。
動画編集の基礎勉強を始めたころ、AKIOBLOGのルーティン動画にある人物が出演します。それがレッツゴーなぎらでした。
その頃はレッツゴーなぎらも初回のルーティン動画しか上がっていない状態でしたが、この動画が絶妙にツボにハマりました。
この頃の彼の「レッツゴー!」は元気がいい。
そして同時に、「この人の動画は、編集次第でもっと面白くなる。」と感じます。
「この人の動画編集者になりたい。」
そう思った僕は、2019年11月にレッツゴーなぎらが大阪に来て、トレーナーのサービスを提供することを知り、すぐに体験パーソナルトレーニングの申し込みを行いました。
体験パーソナル当日。
もはや普通になぎらさんのファンだった僕は、終始緊張しっぱなしで「動画編集者をやらせてください」とは言えませんでした。
体験パーソナルの充実さと、今後も打診するチャンスをつくるために、ここで僕はなぎらさんとパーソナルトレーニングの本契約をします。
ついにルーティン動画初出演。表情が固まる。
それからは、会社から帰ってくるなりパソコンを開いて、動画編集の勉強をする日々が続きます。この時、僕はいつか絶対にレッツゴーなぎらの編集者になれると信じていました。
それから、「行動こそが全て」のマインドで、GOAL-Bのイベントにも積極的に参加します。
当時、大阪で行われたGOAL-Bの年末イベント。
間接的ではありますが、僕の人生を変えてくれた人が集まる組織であるGOAL-Bに、この頃から憧れを抱くようになります。
いつか僕の個性と強みがこの組織と人の役に立つことを目標に、一歩ずつ前へ進んでいこうとします。
社会人3年目:副業と転職活動の本格化。実績の積み重ね。
・2020年2月 レッツゴーなぎらからnoteの執筆依頼を受ける
なぎらさんはパーソナルトレーナーとしてマッチョになるためのサポートをしてくれることはもちろん、僕の今後のキャリアや人生についても相談に乗ってくれました。
そんなある日、僕がブログと動画編集の副業をしていることを打ち明けた際、なぎらさんからある相談を受けます。
それは、2月に大阪にオープンしたトレーニングスタジオGOAL-Bが何もない状態から完成するまでの過程を紹介する有料noteの執筆依頼でした。
ライティング能力は、自前のブログである程度記事を執筆していたレベルでした。ですが、なぎらさんのYouTubeを誰よりも見てきた自負と、GOAL-B以外で僕よりなぎらさんのことを知る人はいないという謎の自信のみを提げて、引き受けることになります。
予備知識は全くなく、類似する記事のリサーチから入るほどでしたが、幾度のミーティングを重ね、依頼を受けてから約1ヶ月で35000字越えのnoteを完成させました。
こちらのnoteは「パーソナルジムを開業したいトレーナーの方向け」という、ニッチな分野のnoteでありながら、販売開始から99日で総販売数100部を突破し、今なお売れ続けている人気noteとなりました。
さらに、このnoteは関連キーワードのSEOで首位を獲得します。
「ジム 作り方」「パーソナルジム 作り方」で1位獲得。
悩み、苦しみながらもがいて出したnoteがこのような結果を呼ぶことができたのは、未経験の僕を信頼してくれたなぎらさんのおかげでした。
・2020年5月 「レッツゴーなぎら」の動画編集者に
記事の執筆協力をして無事成功に収めたものの、僕の本来の目標は動画編集者になることに変わりませんでした。
そしてようやく、僕がこれまで勉強してきた動画編集の技術をなぎらさんにアピールできる機会が訪れます。
それが、2020年5月にGOAL-Bが打ち出した「オンラインボディメイクグランプリ」という企画でした。
ニコニコ動画仕込みの編集でパフォーマンスは成功。
この企画でのパフォーマンスを通して、レッツゴーなぎらのYouTube動画編集のオファーをいただきました。
この人の動画を編集したい!と思い立ってから半年ほど経過してしまい、ものすごい遠回りをしてしまった感は否めませんが、僕のかねてからの目標をここで達成することができました。
今年6月から計18本の動画を編集。
なぎらさんの動画編集は想像通り面白く、やりがいを感じ、「自分のやりたいこと・好きなこと」ができている実感が確かにありました。
その感覚は、これまで会社の仕事で感じた喜びや楽しさを上回るほどであり、僕は「会社での仕事の時間を、この動画編集に回すことができたらどんなに素晴らしいだろうか」と考えはじめます。
僕はこの頃から転職を本格的に考え始めるようになりました。
・8月 名古屋ジムオープンに向けたクラウドファンディングの準備に協力
8月に入り、GOAL-Bは名古屋に会員制ジムのオープンに向けて動きはじめます。
会員制ジムのオープンにあたり、クラウドファンディングのページ作成が必要になった時、またなぎらさんは僕に声をかけてくれました。
この時、これまで積み上げてきた僕の実績をGOAL-Bという組織が信頼してくださったことを本当に嬉しく思い、即座に引き受けます。
このクラウドファンディングのページ制作には会社の夏休み全日をページ制作に費やすなど、約1ヶ月弱の時間をかけてクラウドファンディングのページを完成させました。
ご覧の通り、このクラウドファンディングは開始当初の目標支援金額から3倍の1200万円を調達するという大成功に終わります。
GOAL-Bの勢いと、ファンからの信頼の厚さを身を以て体感します。
また、このクラウドファンディングページの制作に関しては、これまでと違う感覚を味わうようになります。
というのも、ページの文章の執筆に関しては2月に制作した「ジムの作り方note」の件で要領をつかんでおり、クラウドファンディングの告知動画と各種サムネイルは「レッツゴーなぎらの動画編集」の経験が活かされたのです。
このように、作品を制作したい、情報発信をしたい人のサポートを一通りカバーできるスキルを僕はこの1年ほどの時間で身につけていたということを、このクラウドファンディングのページ制作で実感しました。
そしてこの実感は自信に変わり、僕はあるツイートを見つけます。
GOAL-Bで共に「人生をブチ上げる」という価値提供を行う仲間を募集します!https://t.co/QNzb3gvOz8
今回は、オウンドメディアをつくる仲間を募集します。
— AKIOBLOG (@AAAKKKIIIOOO) August 11, 2020
このツイートを見て、GOAL-Bが今必要としている人材に自分が当てはまると確信しました。
僕の大好きな動画制作を1日中することができて、それが僕の尊敬する人の役に立ち、その先にいるお客様の人生を変える。
僕にとって、それよりも素晴らしいことなんてないと、そう強く思いました。
この頃には、これらの副業を通して得た自信からか、本業の仕事もうまくいくようになっていました。ある程度自由度のある仕事も任され、本当に充実していました。
ですが、今いる環境よりも「もっとやりたいこと」「僕が人生を掛けてやりたいこと」がGOAL-Bではできる。そう信じて、僕はGOAL-Bの社員への応募を決意しました。
その後、僕はアキオさんとの面談で自分の想いを伝え、GOAL-Bの広報として働くことが決定しました。
今後のビジョン:「僕は、僕のような人を救いたい。」
今後、僕は発信者を支える役割を担いながらも、僕個人としても発信者として活動していきたいと思っています。
僕がその活動で伝えたいのは、「僕のような人を救いたい」という思いです。
「僕のような人」とは、高い目標を持とうとするポテンシャルを秘めているのに、たった1つの挫折経験から挑戦に恐れ、人の顔色を伺いながら、失敗の無いよう、人から笑われることの無いよう平穏に過ごすようにしてきた学生や社会人であり、こういう人はかなり多く存在していると思っています。
僕は俗に成功者と言われるような人たちにありがちな「1つの物事をずっと続けてきた」という経験がありません。この記事に書いてある通り、これまでもずっといろんなことに興味関心を移して生きてきました。
そんな僕が人生をかけて成し遂げたいことに気づけたのは、現状に留まらず、小さな挑戦を続けてきたからです。特にこの過去1年の変化は目まぐるしく、「1年で人生は変えられる」ということを我ながら実感しています。
「僕は、僕のような人を救いたい。」
その第一歩として、まずは、僕の人生を前に動かしてくれたAKIOBLOGとレッツゴーなぎら、そしてGOAL-Bという組織を、もっと多くの学生や社会人に知ってほしい。
そして、
「自分も挑戦をしていいんだ」
「挑戦は格好悪いことじゃないんだ」と気づいてほしい。
きっと、このマインドを持って行動するだけで、1ヶ月後、半年後、1年後の未来は想像もできなかった自分になっているはずです。
ここで突然ですが、SNSでたまたま見かけたタレントの黒柳徹子さんのお言葉が胸に刺さったのでご紹介します。
『アタシはピアノを始めた時、いい歳だったのよ。今から習ったってしょうがないわよって歳。でもね、考えたの。今始めなかったら来年の私はこう思うわ。「去年始めていればピアノ歴1年だったのに」って。そして10年経ったらやっぱり10年前に始めていればよかったって思うかも知れないでしょ。だって10年続ければもう初心者じゃないわ。ピアノ歴10年って立派なキャリアよ。だから私は思うの。何事も始めようと思い立ったときに遅すぎることはないの。その瞬間から始めればいいの。あの時始めればよかったって後悔するよりいいわ。』
ちょうど1年前の今頃。
手を少し震わせながらも「GOAL-Bパーソナルトレーニング」に申し込んだ僕は、1年後にそのスマホの画面に映っている人達と一緒に働いてます。
これからが僕の人生のスタートです。
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西村信尋

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