アパレル店員からベンチャーへ転職した私 | 中川愛美

こんにちは!

中川愛美です。
1995年生まれの25歳。
現在GOAL-Bのバックオフィス業務全般を担当しています。

GOAL-Bといえば『生き様note』
ついに私も書きました。

拙い文章ではありますが、読んでもらえると嬉しいです。

誕生

1995年12月27日、生まれる。

3人兄弟、男2人に挟まれて育つ。
小さい頃の写真を見返すと、なぜか日焼けがすごい。

小学生

小学校に入学。
ランドセルを如何にきれいにロッカーに収納するかにこだわっていた。
入学当初、みんなの前で先生に褒められる。

勉強は好きではなかったが、大人の言うことには真面目に従う性格だった。
なんとなく、言われた通りにやらないと気が済まなかったんだと思う。

マイペースな部分があった。
私は朝起きるのがとても苦手だ。母に毎日叩き起こされるも、一緒に登校していた友達との待ち合わせ時間にどんどん間に合わなくなり、1人で登校するように、、
母はいつも私が見えなくなるまで見送ってくれたし、横断歩道で見守ってくれるおじいちゃんが、ギリギリに登校する私をいつも待っていてくれた。

兄とギリギリに登校した日が一回だけあったのを覚えている。3つ上の兄と歩くスピードは全然違うのに、私の歩幅には全然合わせてくれなかった。
あの頃から私の早歩きはさらに早くなったと思う。

小学生の休み時間といえばドッジボールだが、私はドッジボールがめちゃくちゃ苦手。球技がとりあえず苦手で、休み時間は縄跳び、鉄棒、一輪車、竹馬などを極めた。
縄跳びはハヤブサ跳びや三重跳びをひたすら飛んだ。竹馬は靴箱の上からじゃないと乗れないような高さに乗った。

また、幼い頃から細かい作業が好きで、自分でフェルトを縫って髪飾りを作っていた。4年生からのクラブ活動は3年連続家庭科クラブ。裁縫したり、お菓子を作ったりしていた。

習い事は、エアロビクスと水泳。(母に習字を見てもらっていたが、サボっていた)

教えられたことをするのは得意だったと思う。エアロビは同学年の女の子グループでやっていた。体がめちゃめちゃ硬かったのでストレッチの時間は苦手だったが、ダンスをするのは楽しく、先生に褒められるのも嬉しかった。みんなより上手に踊るぞ!先生に言われたことを忠実に再現するぞ!という気持ちが大きかった。

言われたことをするのは得意だったが、自分の思っていることを話すことは苦手だった。ひとりでいることも苦手で、一緒に通っている友達がいなかったスイミングスクールは、いつも緊張して通っていた。

スイミングスクールは、バタフライまで泳げるようになったが、飛び込みが怖くて、飛び込みのあるクラスに上がるタイミングで辞めた。ちなみに今は泳ぐのはとても苦手だ。

小学6年生 

卒業が近づき、6年生を送る会が催された。その時、ひとつの出会いが訪れる。
バイオリンだ。

同級生のお母さんがバイオリン教室の先生をしていて、みんなに向けて演奏をしてくれた。それはとても綺麗な音で、感動した。

泣きそうになった。(ちょっと泣いた。)

直感的に「私も弾きたい」そう思った。
その後すぐ、バイオリンを始める。

中学校時代

-バイオリンー

バイオリンを習うことになったため、部活には入るか迷った。そこで、同じくバイオリンを習っていた友人と、活動の少ない茶道部に入部。(夏は冷房の効いた和室で雪見だいふくを食べるのが最高だった。)

バイオリンやるぞー!!と最初は意気込んでいたが、バイオリンは簡単に弾けるようになるものではなく、自分の思っている音は全然出せないし、思った通りに弾けない。(しずかちゃんよりは上手かった。)

これまで、なんとなくこなしてきたこととは全然違って、すぐに上達できないもどかしさがあり、家での練習には身が入らなかった。週一回のレッスンの直前に急いで練習したりもしていた。
それでも、いろんな曲が弾けるようになってくると楽しかったし、曲を弾いていると良い気分になれた。発表会に参加することもできたが、人前で演奏する自信はなく、一度も参加しなかった。

-勉強-

好きな科目は美術と音楽で、元々勉強はあまり好きではなかった。2年生の学力テストでは賢いとは言えない高校の名前での判定だった。そんな中、新しい塾に入ったことが私に大きな影響を与える。

入塾テストを受けてクラス分け。仲の良い友達は頭が良かったのでクラスが離れてしまい、私の苦手なひとりの状態になってしまった。
クラスで孤立していた私に塾の先生はとても優しくしてくれて、テストの期間は友達のいるクラスで受けさせてくれた。
しかし、ひとりの時間は苦痛だった。

先生方は教えるのもとても上手で、勉強が楽しくなっていき、私の成績は上がっていった。特に数学はとても面白く、どんどん問題が解けるようになっていくのが嬉しかった。

この時、教えてもらったことを素直に実践することの大切さを学んだ。成績が伸びたおかげでクラスも上のクラスに上がることができた。

塾では、勉強だけでなく人間関係の学びもあった。クラスが上がった際に仲良くなった他校の女の子と、誤解があって関係が崩れてしまったのだ。その女の子とは分かり合うことができず、先生方もたくさん気にかけてくれた。

私のこれまでの人生で、人間関係のトラブルといえば、今のところこの一件ぐらいではないだろうか。

高校受験が近づき、志望校別でクラス分けが行われる。私の志望校は2つ目のクラスだったが、関係が悪くなってしまった女の子との関係を気遣い、先生方は私を一番上のクラスに入れてくれた。

その環境は私にはとても良い環境だった。自分より賢い人たちの中に身を置くことで、私の成績はまた伸びた。

結果的に、偏差値を15ほど上げて、志望校に合格。満点を狙っていた数学で、一問間違えてしまったのが心残りだったが、満足のいく結果だった。

高校生時代

文武両道を掲げていた学校だったため、部活動は盛んだった。その高校には奈良県の公立で唯一弦楽器の取り扱いのある、吹奏室内楽部があった。元々はダンスを習いたいという気持ちがあったものの、「希望して入った高校にたまたまバイオリンがある。やりたい!」と思い、同じ中学から進学した友人を誘い、吹奏室内楽部に入部。

吹部の練習はやっぱりキツかった。といっても管楽器と弦楽器は別枠で、管楽器はコンクールがあるが、弦はコンクール等はなく、コンサートに向けて、練習をした。
自分のバイオリンを持っていたので、毎日バイオリンを背負って通学していた。ずっと背負っていると結構重い。

部活は正直しんどかった。
入部すればまずはひたすら基礎練習。中学からバイオリンをやっていた私には早く曲を弾きたいという気持ちが強く、基礎練習は苦手だった。

他にしんどかったといえば、ずっと立ちっぱなしだったことだ。土日は特に、長い時は8時間、ひたすら立ちっぱなしでの練習は苦痛だった。
「本番は座って演奏するのに、なぜ座って練習してはいけないのか」と同級生みんなで愚痴を言っていた。先輩が引退したら座って練習OKにしようと同級生のみんなと決めた。

最高学年になり、私はセクションリーダーを任された。
弦楽器全体の演奏をまとめる役割だ。音感があるわけでもないし、きちんとセクションリーダーをできているのか不安な部分はあったが、だからこそ思ったことは全部言って、他の部員に頼るところは頼って、「みんなで仕上げていく」ということを意識した。
演奏以外でも、部員のまとまりには気を遣っていた。みんなで楽しく演奏をしたかったし、純粋にみんなのことが好きだった。
トラブルが起こることもあったが、正直に話し合うことを大事にしていた。

涙が止まらない

高校生のときから、キャパオーバーになると涙が止まらなくなった。

突然だった。
先輩が卒業するため、色紙のイラストを担当していた。何枚も担当するのは大変で正直なところ引き受けたくなかったが、絵を描くのが好きなのもあって、お願いされて、断れなかった。

締め切りの前日、色紙のイラストを完成させるのが遅くなってしまい、寝るのが遅くなってしまった。
高校生になってもやっぱり朝は苦手で、毎朝母に叩き起こしてもらっていた。この日は色紙のせいで寝不足。また時間ギリギリか、、とイライラとやるせない気持ちがすごかった。
家を出る時から涙が溢れてきて、駅まで車で送ってもらった。

最寄り駅に着く頃には涙はなんとか止まっていたが、いつも一緒に登校している友達の顔を見た途端にまた涙が止まらなくなった。

電車でぽろぽろ涙を流しながら学校の最寄駅についた。駅から学校まで歩いている間に涙はまた止まったが、校門前で、良くしてくれていた生徒指導の先生の顔を見てまた涙が溢れ出す、、

教室について友達に会うともう、涙は止まらず
「こんなに涙袋がパンパンになってるの初めて見た」と言われたのをなぜか覚えている。

授業には出られない状態だったので保健室に向かった。保健の先生に話を聞いてもらいながら泣きじゃくったが、どうしてこんなに涙が止まらないのかはわからなかった。

1時間ほど泣いて、すっきりしたのかその後は元通りだった。

高校生活で涙が止まらなくなったのはもう一回あった。

もう一回は英語の授業中、何のきっかけがあったわけでもないが、なぜか急に、涙がぽろぽろ出てきて止まらなくなった。また保健室にお世話になった。

ストレスや自分の状態に鈍感だった。

大学生

色や服について学びたいなと思い、
アパレルコースのある女子大を選んだ。

大学生になるに当たり、私は決めていたことがあった。「人見知りな性格を脱却して友達を100人つくる」ことだ。
特に理由があったわけではないが、人見知りな性格を辞めたかった。

私の通っていた学科は、1年生の時はみんながアパレル、インテリア、建築関連のことを幅広く学び、2年生からそれぞれのコースに分かれてクラス分けされる、というスタイルだった。

たまたま中学の同級生が同じクラスだった。高校の受験の際、一緒に勉強していて、違う高校に進学した友人だ。ホッとしてすごく心強かった。近くにいた数人でグループができていった。

大学には部活はあったが、サークルはなかった。
入学式の校門までの道では他大学のサークルのビラが腕から溢れるほど渡された。大学生といえばサークル活動!友達100人つくるにはサークルは必須だった。

いくつか新歓にも参加したが、大学生のウェーイな雰囲気に馴染めず、しっくりくるところがなかった。そんな中、友人が入ると決めたフットサルサークルに一緒に入った。

バイオリンを続けたかったため、近隣の医科大学のオーケストラ部にも所属したが、医大生の雰囲気に馴染めず、1年足らずで辞めてしまった。

フットサルサークルはとても楽しかった。サークルに所属していない人は、どうやって大学生活を楽しんでいるんだろうかとさえ思った。

サークルをきっかけに、いろんな人と話していくことで人見知りすることがなくなっていった。今では初対面の人と話すことが好きだ。

-友人の存在-

そうしているうちに、2年生に学年が上がった。クラス分けが行われ、アパレルコースに進んだ。仲の良かった友人はみんな違うコースへ、1人になってしまった。

高校受験の際の1人の時間が思い出された。学校に行くのが億劫になり、緊張した時間が続いた。友人がいない孤独感や、不安というのはこんなにもダメージがあるのかと、体験した。

授業中は特に問題なかったが、一番しんどかったのは昼休憩だ。誰とご飯を食べたらいいのかわからなくて、最初はコースが離れた友人に連絡をして一緒に食べていた。

しかしその悩みからはすぐ開放された。
名前順で座席が決められている授業で隣になった子と話をしたことをきっかけに、その子が仲良くしていた数人と仲良くなることができたのだ。

元々「友達」という存在は大切にしていたが、その経験から、改めて友達の存在の大きさ、大切さを実感した。

ファッションショー

大学生活、学校の授業とアルバイト、サークル活動に時間を使っていた。
しかし、新しいことを初めたことにより、あれだけ楽しんでいたサークルに行かなくなっていった。

新しいこと、ファッションショーだ。

たまに電車が同じになり一緒に帰っていた高校の同級生がいた。その同級生から連絡があった。
「ファッションショー興味ない?」
誘ってもらった。

このファッションショーは、1500~2000人ほどのキャパの舞台(ライブハウス)で、1チームごとに11分という時間が与えられる大学生が主体のイベントだ。
チームごとに自由にテーマを決め、それを表現するための衣装、構成、音楽、照明など全て自分たちでつくっていくというものだ。リーダーがモデル、クリエイター、ヘアメイクを集めてチームをつくる。

年4回ほど開催されるこのファッションショーに、私はモデルとクリエイターを合わせて計7回参加した。リーダー、サブリーダー、モデルリーダーなど様々な立場を経験した。
その中でもやっぱり一番印象に残っているのは、自分がリーダーを努めた時だ。それはファッションショーへ3度目の参加だった。

私がリーダーを勤めることになるきっかけとなった、友人に誘ってもらった初めてのファッションショー、仲間とつくりあげたあの11分間は、最高だった。

その時はモデルとクリエイターどちらも担当した。ウォーキングなんてしたことないし、服をつくることも授業でやり始めたばかり、不安はあったが「この想いを11分間でどうやって表現しようか」と一生懸命だった。

そうして迎えた本番、家族やたくさんの友人も観に来てくれた。何ヶ月もかけてみんなでつくりあげたものを本番の11分間で出し切った。

終わった瞬間、達成感に満ちていた。

本番を終え数日後、ファッションショーの運営の方から、「リーダーやってみないか?」と連絡をもらった。

私はまた、あの創り上げる過程の充実感を得るため、あの達成感を得るため、自分の表現したい想いを表現するため、リーダーにチャレンジすることに。

テーマはすぐに決まった。『涙』だ。

テーマを考えている時、一緒にやりたいと思った人がいた。前回、同じチームでクリエイターをしていた人だ。その時はそんなに仲が良いわけではなかったと思う。しかし、「このテーマはこの人と作っていきたい」そう思った。
ダブルリーダーで、前回のチームの名前を引き継ぐこととなった。

前回のチームは、他の参加者や運営側からも期待され、称賛されていたチームだったため、そのチームの名前を引き継ぐというのはプレッシャーもあったが、なぜか必ず最高の物ができるという自信があった。

何より、ワクワクが止まらなくて、11分間で何を表現したいのか、構成はどうするのか、誰をチームに誘うのか、衣装のイメージは、曲はどれをどう使うのか、映像はどうするのか、全てを考えるのが楽しかった。

リーダーをすると決めてから本番までの半年間、夢中だった。
本番は12月27日、偶然にも私のハタチの誕生日だった。10代最後、とても充実していたし、とても成長することができた期間だった。

もちろん大変なことはたくさんあった。
最初に大変だったのは、モデル集めだ。メンズモデルがなかなか集まらなくて、フットサルサークルの先輩に動画を見せて熱弁したり、友人の行きつけの洋服屋の店員さんの店に突撃訪問して、初対面でいきなり「ファッションショーに参加しないか」と誘ったりした。

無事、メンバーを集めることができ、25人ほどのメンバーになった。
週2~3回学校終わりの18:00~22:00、半年間外の広場で練習した。本番は12月だったため、練習の時期はとても寒かった。

練習が始まるとまた問題が出てきた。
モデルは私を含めて16人、練習になかなかこない人がいたり、集中できていない人がいたり、まとめるのは大変だった。

それでも、一人一人と向き合うことを忘れずに、自分の気持ちを正直に話すことを心がけた。自分だけじゃなく、みんなが本音を言い合える環境にしたかった。そうやって本音をぶつけ合いながら、メンバーの繋がりは強くなっていったと思う。

本番は
それぞれの想いが溢れている、そんな11分間だった。

最高のハタチの誕生日だった。


この後、毎回「これで最後にする」と言いつつも、結局4チームに所属した。夢中になって、みんなでこの11分間をつくっていくのがとても楽しかったし、誘ってくれたリーダーの期待に応えたいという思いが強かった。

こうして、大学生活は間違いなく充実したものとなった。

社会人

アパレルコースからは、販売員の道へ進む人が多かった。私もその1人だ。大学時代も2年ほどアパレルの販売員のバイトをしていた。大手セレクトショップへ就職、店舗へ配属された。

販売員の仕事はとても楽しかった。アルバイトをしていた時から、接客がとても好きだった。自分は仕事ができる方だと思っていたし、接客力も褒めてもらうことが多く、販売員は天職かもな〜なんて思っていた。

一方、体力的にしんどい面もあった。段ボールを運ぶような力仕事も多い。シフト制の不規則な生活は母に心配されていた。

突然の腕の痛み

ある晩ソファーで横たわっていて、起き上がると左手が痺れていた。圧迫されて痺れているだけだろうと思った。

しかし、お風呂に入って、寝る時間になってもその痺れはなくならなかった。怖くなって親に言ったりもしたが、寝たら直っているだろうとそのまま就寝。

夜中に強烈な腕の痛みで目が覚めた。左手は痺れたままで、腕がとても痛かった。手の痺れは脳と関係がある可能性があるということをネットで知ってさらに怖くなった。

母を起こした。救急車を呼ぶべきか迷い、救急安心センターに電話をかけた。救急車を呼んだ方がいいかもしれないと言われ、救急車を呼んだ。
救急車に乗ったのはそれが初めてだった。

不安な中、救急車で病院に連れて行ってもらった。CT検査とMRI検査をしてもらったが脳に異常は発見されなかった。後日、大きな病院で再度検査をしてもらうことになった。お医者さんに、朝起きたら下半身麻痺になっていた少年の話をされ、怖くなった。

特に何もわからないまま、帰宅した。病院で痛み止めをもらったが、効果はなく痛みはひどいままで、むしろ増していく一方、眠れなかった。腕がもげそうで、腕をとりたいと思うほどだった。
耐えられず、もう一度母に病院に連れて行ってもらった。強めの痛み止めをもらい、やっと痛み止めが効いてきて、眠ることができた。

数日して痛みは少しずつ引いていったが、波があり、痛み止めが手放せない日々が数ヶ月続いた。何度か大きな病院に通い、検査をしてもらった。2ヶ月ほどたった頃だっただろうか、「肘部管症候群」と診断された。 

肘の尺骨神経が圧迫されたり傷つくことで、小指側の手の半分がピリピリと痺れて、前腕に痛みが生じたりするらしい。
スポーツや仕事などで、肘を酷使する生活を続けてきた人はなりやすいといわれているようだが、私がなってしまった原因は不明だ。

手術をするか、痛み止めでもう少し様子をみるかと言われた。手術は局部麻酔で行われ、当日に退院できるらしい。手術をした方が早く痛みから開放されるのかもしれない。そう思ったが、手術について調べていると画像が出てきてしまい、絶対無理だ、という思考になってしまった。

そこで母が、肘部管症候群の治療について調べてくれ、手術はせずに、鍼灸院に通うことにした。
数ヶ月通い、症状は良くなっていった。今でもふとした時に痺れを感じたり、腕の痛みを感じる時はあるが、ほとんど気にならなくなった。ジムに通って筋トレだってできている。

ただし、手が痺れるようになってからバイオリンは弾いていない。

退職

販売員は重たい物をよく運ぶ。一向によくならない手の痺れと痛み、店の人に協力してもらい、重たいものは他の人に運んでもらっていた。

しかし一年目の一番下の立場、先輩にお願いして代わってもらうのは、とても気を遣った。当たり前だが、私がどれくらいの痛みを感じているのか、他の人には分かってもらえない。痛くても、笑顔で接客しなきゃいけないし、服を持たないといけない。そんな風に思うようになってしまった。

「もうダメだ。」そう思った。
痛みが出たのは11月頭、そこから約1ヶ月で退職を決意し、年末に申し出て2月末で退職することになった。ゆっくり休んで、療養しながら転職活動しようと思った。
手の痛みは治るのだろうか、、と不安な気持ちばかりで気が滅入っていたが、転職すると決めたら、なんだかワクワクした。手は治っていないが、これから何にでもなれる気がした。

ニート

私は半年ほどニートをしていた。手と腕の痛みが原因で急に辞めたため、次に何をしたいか考えていなかった。それでも何とかなるだろうと思っていた。楽観的なのだ。

しかし、いくつか面接を受けたが、全く受からなかった。きちんと向き合えていなかったのだから当たり前だろう。しかも左手は痺れていて、薬指と小指はキーボードもきちんと打てない状態だった。手が使えないと何の仕事もできない、そう思った。

どうしようか、、となっていたタイミングで兄が会社を作ると言い出した。失業給付金もなくなりそうになっていたので、バイトとして何か手伝うことはないかと兄に聞いた。法人設立の手続きを私がすることになった。

そんな中、父が「愛美が経理をやるのはどうか」と提案してきた。

これが私がGOAL-Bに入社することとなるきっかけだ。私は経理なんてしたことはなかったし、簿記の勉強もしたことがない。そもそもどんな業務があるのかもよく理解せずに、直感的に、「面白そうだ」「やりたい」と思った。
当初は副業で手伝おうかと思っていたが、業務が増えていき、正式に社員となることになった。

GOAL-B

GOAL-Bはすごいスピードで成長している。

設立の届出をした時に今の状態が想像できただろうか。

GOAL-Bの名前が入った保険証が届いた時、「本当に会社になったんだ」と実感した。

給料の振り込みをして、「社員がいるんだ」と実感した。

請求書を発行する度、「GOAL-Bを信頼してくれているクライアントがいるんだ」と実感した。

会社ができてからこれまで、そしてこれから、
成長していく過程を一緒に過ごしているんだと実感することができる。

「GOAL-Bを支えたい、守りたい、強くしたい」
そんな気持ちがある。

私に出来ることはとても少ないかもしれない、それでもGOAL-Bのためにできることを、全力でしていく。

GOAL-Bはまだまだ走り出したばかりだ。

これからどんなことが待ち受けているのか、楽しみで仕方ない。

 

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中川愛美