何者でも無いからこそ、何者にでもなれる。| 古川誠

みなさんご覧頂きありがとうございます。

株式会社GOAL-B 古川誠(フルカワ マコト)です。

僕の26年間を振り返り、
この場所に想いを残したいと思います。

『僕の人生は決して綺麗な人生ではありませんでした』

少し長くなりますが
最後まで読んでくださるととても嬉しいです。

先ほども書いた通り僕の今までの人生は、
決して綺麗なものではありませんでした。

誰もが憧れる高学歴を持っているわけでもなければ、
突出するような才能を持っているわけでもありません。

いつ見渡しても僕の周りには『凄い人達しかいないな』

と思う事がたくさんあります。

しかし、せっかくこの場所に想いを残せるからこそ、
僕にしか歩むことのできない、
古川誠の生き様をここに残したいと思います。

『何者でもないからこそ何者にでもなれる』

僕はこの肩書きを一生背負って生きます。

この世に生を授かる

1994年6月12日 僕は青森県八戸市で生まれた。

しかし父親の仕事の都合で生まれてすぐに、
6年間神奈川県の平塚市で幼少期を過ごすことになる。

通っていたのは富士見保育園。

幼少期はその場所で過ごした。

今でも鮮明に覚えている友達や建物に街並み、
今でも平塚市という場所は僕にとって第二の故郷だ。

ご存知かもしれないが平塚は治安が良い街ではない。

平塚市の七夕祭りは怖そうな人達しかいない。

そして僕が6歳になる頃また親の都合で、
青森県の階上町という場所から生活が始まる。

びっくりするほど、ど田舎だった。

家の目の前は森に囲まれていて、
2階のベランダからは水平線が見えた。

夏は海岸沿いの花火大会が見えたりもした。

目の前の森には自然のウサギやキジ、
蛇やもぐらがいることが当たり前だった。

夜になると虫の鳴き声が響き渡り、
夜空にはプラネタリウムにも負けないほどの
綺麗な星々が散りばめられていて
体に入ってくる新鮮な空気は、
嫌なことを全て忘れさせてくれた。

小学校生活

小学校に入学するタイミングで青森に戻った僕には、
青森に友達なんて1人もいなかった。

慣れない初めての環境で
緊張と不安が入り混じりながら迎えた入学式。

幼少期から人が好きだった為
友達ができないことに困ったことはなかった。

よく色んな友達の家に遊びに行き秘密基地を作り、
夏は花火をして遊んでいたことを覚えている。

今も昔も変わらず、
『人』と触れ合うことが心の底から好きだった。

昔から食べることが凄く好きで、
母親の作る料理が本当に大好きだった。

子供の頃から本当の父親のように
僕のことを愛してくれたじいちゃんは
いつも美味しいお店に連れて行ってくれた。

そのおかげで小学校4年生になる頃には、
本当におでぶちゃんだった。

小学校では4年生から部活に入ることができた。

バスケ部か野球部しかない田舎の小学校だったため、
選択肢は2択しか無かった。

正直どっちでも良かった。

強制ではなかったため、部活に入らなくても良かった。

バスケ部志望の友達と
野球部志望の友達がジャンケンを行い、
勝った方の部活に入部する形で
結局、野球部に入ることになった。

野球部の練習は想像を絶するほどキツかった。

今思い出してもよくやり切ったと思う。

びっくりするほど広い校庭のフェンスギリギリを、
毎日20周走ることから始まる。

1周するだけで1kmはあったので、
単純に毎日20kmは走っていた。

そしてグランドが使えない日や雪の日でも、
必ず校庭を20周走ってから校内に入り、
1階から3階にかけて
雑巾掛けダッシュを何度も行った後、
ゴリゴリの筋トレ祭りだった。

みるみるうちに体重は減り、
外見にも内面にも自分に自信がついた。

ちなみに野球は本当にセンスが無かった。

鬼のようにハードな部活と、
学校行事の毎日のマラソンタイムに加え

月に何回かマラソン大会というものもあったため、
ひたすら走っていたことは覚えている。

そう、走りまくっていたのだ。

知らないうちにスタミナと持久力、
そして決して逃げないことが身に染みついていた。

そのため町の陸上競技会や運動会では、
長距離走によく出場していた。

僕は辛いことや苦しいことが本当に好きじゃない。

しかしそれに勝るのは『決して逃げないこと』

このマインドだけが僕を突き動かしていた。

小学校高学年でいじめられる

野球部での鬼のような練習や環境のおかげで、
外見にも内面にも自信がついた僕は
自分のことをかっこいい人間だと思っていた。

周りから『あいつはナルシスト』だと言われ続け、
廊下をすれ違う度に
心無い言葉をかけられるようになる。

はぶかれたり馬鹿にされるようになり、
学校に行くのも嫌になり人と関わるのも怖かった。

この頃、10歳で両親の離婚も経験した。

父親はギャンブル好き・女好き・酒好き・借金まみれ

そして母親や僕に手をあげたこともある。 

それから、成人するまで父親に会うことは無かった。

しかし『決して逃げないこと』

このマインドのおかげで、
たとえ1人になろうと僕は負けなかった。

『どんなことがあっても逃げなかった』

そんな中、1人の友達だけは僕の側にいてくれた。

彼の名前はY。

彼だけはいつも僕の味方でいてくれた。

暗い毎日に光が差したのを覚えている。

Yの存在で僕は何度も何度も心が救われた。

側にいてくれる仲間の存在が、本当に嬉しかった。

それから僕の人生に少しずつ光が増えて行った。

野球部仲間だけは僕の仲間でいてくれるようになった。

それからは毎日みんなと一緒に行動するようになり、
登校するのも学校生活、
部活や帰り道もいつも一緒だった。

いつも5人〜6人でいたあの頃の仲間達は、
小学校から未だにずっと仲間だ。

今でも連絡を取り合うし、
地元に帰った時は必ず集まる。

Yと野球部の仲間達は、
この頃のどん底から僕を救ってくれた。

中学校生活

僕の中学校は母校の小学校と隣接していたため、
登下校もほとんど小学校の時と変わらなかった。

中学校は地元の5つの小学校が集まり、
1学年ができていた。

とはいっても、1学年150人くらいの規模だ。

その中でもすぐ隣の地区の小学校はとても治安が悪く、
よく地元の教育テレビで取材にあがり、
全国放送されるほど荒れていた小学校だった。

案の定、僕の中学校生活は想像以上に荒れた。

そもそも3年生がめちゃくちゃ怖かった。

喧嘩で腕を骨折して包帯グルグル巻きの先輩、
金髪の先輩、基本的にボンタンスタイル、
タバコやナイフも平気で持ち歩いていた。

学校の壁中穴だらけ。

廊下で暴れ回る先輩を、生徒指導の先生方が
全力で抑え込んでいるのを毎日見ていた。

廊下ではしょっちゅう絡まれる。

これが当たり前だった。

僕の教室の壁ももちろん穴だらけ。

修繕で壁丸々工事が入ったこともあった。

授業中に他のクラスの生徒が教室に入ってきては、
壁に穴を開けて出ていく。

休み時間には喧嘩が起きることも頻繁にあった。

実際に友達同士の喧嘩を止めようと仲裁に入った時は
扉ごとガラスを突き破って、
保健室に運ばれたこともあった。

未だに僕の左手には深く傷が残っている。

隣のクラスの担任の先生は鬱になってしまい、
僕たちが卒業するまで
復帰できなかったなんてこともあった。

そんな中学校1年目だった。

中学校 2年目

中学校2年目になり僕は授業にあまり出なくなった。

その時よく一緒につるんでいたのはAとSだ。

よく3人で一緒に行動していた。

授業を抜け出しては秘密基地を作りに行き、
野外にある部室の屋根の上で空を眺めながら、
未来についての話や他愛のない話をし、
時間だけが過ぎて行った。

あの頃は何にも縛られることなく自由だった。

放課後には不良グループとつるみ、
よく教室の机を下げては取っ組み合いや喧嘩をしていた。

友達の家に遊びにいく度に、
クローズという不良漫画の映画をよく見ていた。

この頃の僕達のバイブルだった。

今となっては恥ずかしいが、
その当時本当にかっこいいと思っていた。

そこに情熱を掻き立てられていたこの頃。

映画を見終わったあとは表に出て喧嘩をする。

というよく分からない過去もあった。

その友達は飛び蹴りに失敗し、
顔面から落ちて前歯を折ることもあった。

今となっては全てが刺激的な思い出であった。

中学校 3年目

刺激的な2年間が過ぎ、3年生になると
周りは少しずつ受験モードになっていた。

3年目の新しいクラスメイト達は、
偏りすぎだと思うくらい個性的すぎるメンバーだった。

授業中もとにかくうるさく、ガヤガヤしていたが、
なぜか授業は本当に楽しくて教室にちゃんといた。

授業も真面目に受けることができるようになった。

学校の行事もそのメンバー達とだったから楽しかった。

中学校最後の運動会も、
みんなの力で優勝することができた。

仲間と1つの目標に対して燃えるって最高だな。

その頃、僕はそんな感覚を覚えた。

相変わらず馬鹿な事ばかりしていたのは、
最後の最後まで変わらなかった。

3年間僕達の学年を担当していた先生方は、
本当に苦労したと思う。

しかしどの先生を見ても誰1人として
見捨てることはなく、
生徒に対して全力だったことも覚えている。

教師という仕事は今になり、
凄さやありがたみが分かる。

中学校 卒業

時間が過ぎるのはあっという間だった。

各々が高校受験を終え高校に進学する者、
高校に行かず就職する者。
それぞれ自分達のこれからが決まり、
刺激的な3年間にも幕が降りる。

卒業式は不思議なくらいあまり実感もなければ、
記憶にもあまり残っていない。

ファンキーモンキーベイビーズの『桜』が流れる。

それが当時の卒業ソングだった。

天気は快晴、3月の春先の風に
桜が舞っていたのを体で感じ卒業を実感した。

青春や反抗期も含め、
たくさんの思い出が詰まった3年間だった。

高校生活スタート

中学校生活が終わり、僕の高校生活がスタートした。

中学校時代まともに勉強はして来なかったが実は、

・ソフトテニスで地区大会は常に優勝

・県大会では常にベスト4入り

・最後の夏の大会では東北大会出場

スポーツ項目の点数のおかげでなんとか滑り込み、
市内の県立高校に入学することができた。

正直高校に入るつもりは無く、
中学校を卒業したら大工にでもなる予定だった。

父親も父親の弟もずっと大工で今もずっと現場仕事だ。

子供の頃からその姿を見て育ってきた影響もあり、
自分の人生もそんなイメージだった。

しかしきっかけは母親だった。

『高校までは行ってほしい』

理由はたったそれだけ。

そういえば母親の話をしていなかったが、
僕の母親は本当にたくましく、
肝が座っていて根性があり、
本当に今でも敵わない存在だ。

僕と妹を女手1つで育てながら、
父親の残した借金800万円を
何個もの仕事を掛け持ちしながら返済し、
僕と妹に無償の愛を注ぎ続けてくれた人だ。

本当にこの人には敵わない。

高校に進ませてくれて本当にありがとう。

リアルクローズの世界

高校から市内に通うことになったため、
各地の中学校から進学してきた学生が集まり、

更に刺激的な出会いがあった。

1学年、4科に分かれており特に激しかったのが、
僕がいた海洋生産科と水産工学科で
どの学年もこの2科が大体荒れていた。

先輩方を見渡しても危なそうな人しかいない。

ナイフを持ち歩いていた先輩もいた。

そんな感じで激しい高校生活が幕を開けた。

僕の地元のこのH市は、
自分達の親の世代もそうだが、
昔からずっと治安の悪い港町だった。

港町といえば漁師。

漁師は気性が荒い。

親の世代は学校の中を、
バイクで走り回ることが当たり前だったらしい。

どういうことなのか全く理解できない。

ヤ○ザの事務所も今だにある。

昔はかなり活発だったらしい。

そんな昔からの伝統もあり、
気性の荒い漁師やイカツイ人も多い。

当然僕たちの世代もヤンチャ坊主が多かった。

校内の交友だけでなく他の高校の生徒、
学校に行かずに働いている友達とも交友があった。

僕の地元は狭いのであっという間に名前は広がる。

隣町にまで名前が知れ渡る、
狭くちっぽけな場所だったんだと今では思う。

色んな交友関係があったため、
トラブルや揉め事にたくさん巻き込まれた。

初っぱなは入学して早々の集団停学だった。

僕を含めて一気に7人が停学になった。

理由は『喧嘩』

中心街で他の高校の生徒と7対7で揉め事になり、
近くの公園に移動し喧嘩になったが、
その場はこちらの圧勝だった。

しかし後日学校が終わる頃、
正門前に明らかに高校生ではない、

ガラの悪いチンピラが12人ほど
僕たちをお出迎えしてくれていた。

負けた喧嘩グループがバックを使ってきた。

その時、学校にいたのは僕とYの2人だけだった。

当時めちゃくちゃ怖かったのを覚えている。

どう考えても12対2は厳しいだろうと。

しかしここでも『決して逃げないマインド』が発動。

その先がどうなるか鮮明にイメージできてしまうが、
それでも男として堂々と在りたかった。

12人に囲まれながら最寄り駅の裏で袋叩きだ。

抵抗の『て』の字も出てこない。

それもそうだ。

12対2は現実に起こるとどうしようもない。

これまでにないくらいボコボコにされた。

そんな時、1人の先輩に助けられた。

同じ高校の3年生のH先輩だった。

見た目からして危ない先輩の1人だ。

休みの日に1度だけ会ったことがあるが、
黒のレザージャケットを風に揺らしながら、
両サイドに女の子を連れ歩いているような人だった。

この先輩が危機的この状況から救ってくれた。 

『気持ちは分かるけどそんくらいにしてやれよ』

先ほどもお伝えしたが、
僕の地元は狭いが故に人脈の繋がりが凄い。

H先輩はこのチンピラ達とも交友があったのだろう。

その場は鎮まり、
そのタイミングでパトカーが2台きた。

H先輩は『お前らは線路走ってどっか行け』

何も考えずにY君と線路を走り続けた。

ある程度離れたところで僕たちは、
タバコをふかしながらボロボロの顔で笑い合った。

そして荷物を取りに学校に戻った際に担任に見つかり、
全てがバレ、僕たちは集団停学になった。

ちなみにこの時の担任の先生は、
情熱的で愛がある先生だった。

毎日みんなの指の匂いを嗅ぎ、
タバコを吸ってないかチェックする先生で、
自分が気づいた時には公にすることはしない。

本気で向き合い、本気で叱ってくれる先生だった。

すごく元気があり愛があり毎日を大切にしている。

そんな感覚を得た。

男として格好良いなと思った。

しかし僕達が2年生に上がるタイミングで、
別の高校に転勤になってしまった。

高校生活 2年目

2年目に上がると新しい担任の先生が赴任してきた。

この先生は本当にクセが強く、
怒らせると地獄の果てまで追ってくる、
そんな先生だった。

当時はみんなこの先生が大嫌いだった。

ちなみにあだ名は文吉(ぶんきち) 

以下、文吉で行きます。

当時はまだ卒業式で号泣しながら文吉に対し、
心の底から感謝することになるとはまだ知る由も無かった。

バスケットボール部

中学の頃ソフトテニスで
青森県選抜の有力候補まで行っていたので、
本当は県大会でも毎回上位の
工大一高という私立の高校に行きたかった。

しかし、私立は学費も高く特待制度を使っても
親に負担がかかることを考え辞退。

そして工大一高じゃなければ
ソフトテニスはやらないと決め、
適当な部活に在籍しながら
フラフラ遊び歩く日々だった。

そんな中、バスケットボールに出会う。

小学校の頃から遊びで
バスケットボールはずっとやっていたが、
まさか部活として本気になるとは思っていなかった。

今思い返すとあの時はギラギラしていた。

イメージとしてはスラムダンクのような、
個性ある不真面目なやつらが集まったバスケ部。

流川のような奴がいたり、
三井寿のように3Pを極めた奴がいたり、
ゴリのようにリバウンド最強がいたり、
それでいうと僕は桜木花道的な所。

流石に髪は赤く染めてなかったが。

不真面目な始まりから少しづつチームになった。

ちなみにバスケットボールの顧問の先生は、
元暴走族でキレると本気で怖かった。

学校で一番、怒らせると怖い先生だった。

本気で怖すぎた。

それからバスケに熱中する毎日が始まった。

バスケ部の夏場の練習は、
熱気がこもった空間で走りまくるので、
とにかくきつく大量の汗と脱水症状に襲われる。

今思うととてもキツかったが、
一丸となったあの頃の感覚が、心地よかった。

とにかく走り、部活が終わっても残って練習した。

朝練も行い、昼休みもバスケばかりしていた。

僕はスポーツが好きというよりも、
仲間と1つの目標に走れることが、
たまらなく好きだった。

この頃から仲間やチームというものが好きになった。

たまに練習が嫌でさぼったりしたこともあったが、
引退まで走りきることができた。

僕達の高校は毎回初戦敗退の弱小校だったが、
少しづつ勝てるようになり
最後の大会は県でベスト8まで行くことができた。

あの頃の仲間達に伝えたいのは、
青春と感動をありがとうと伝えたい。

仲間がいてくれたから僕は最後まで走り切れた。

高校生活 3年目

高校生活の3年間は、
中学校の時より時間が経つのがとても早く感じた。

高校受験の時とは違い今度は就職試験なので、
みんな気合いの入り方が全く違う。

余談ですが僕の高校は水産高校だったので、
普通高校とは違い、
工業高校や商業高校に近いような形だった為、
専門的な資格の取得が行えた。

2年生の最後の行事では、
遠洋漁業の実習でマグロを取りに太平洋沖で
2ヶ月半滞在しハワイで5日間遊び倒したのち、
折り返し日本に帰ってくるという実習もあった。

毎日同じ仲間で、そして男だけで。

もちろん、しっかり携帯の電波は繋がらない。

そして僕がハワイから帰ってくると事件が起きた。

当時僕が2年ほど付き合っていた彼女と
僕の友達が浮気をしていた。

野生の嗅覚なのか人間は嘘をついていると
すぐに分かった。

しかも1度や2度じゃなかった。

まだまだ子供だった僕は、
怒りの矛先を暴力に変えることしかできなかった。

中心街のお馴染みのボーリング場の地下駐車場に
その相手を呼び出して視界に入った瞬間に
僕の怒りは最高到達点に達していた。


気付いた時に相手の頭を何度もコンクリートに打ちつけていた。

相手は震えながら頭から流血していた。

そしてアドレナリンが切れてきて
僕の拳もかなり痛みを負っていた。

そんな時パトカーのサイレンが鳴る。

僕は全力で走り出しその場を後にした。

逃げながら、すれ違うパトカーを数えたが
少なくとも7台はパトカーが駆けつけていたのだろう。

それから数日が経っても、
特に連絡は無く警察にお世話になることは免れた。

それが高2の最後の記憶だった。

話は変わるが、
高校3年間で取得した資格も結構ある。

情報技術・特殊無線技士2級

ガス溶接・アーク溶接・潜水士(海猿)

小型船舶1級・特殊小型etc…

クルーザーで世界一周ができ、
ジェットスキーも乗れるので夏は注目の的だ。

貴重な経験をさせていただいた高校生活、
本当に感謝が溢れる。

就職活動についてはこの頃自分の中で葛藤があった。

・地元に残るべきか

・関東に行くか

かなり悩んだのを覚えている。

その頃から漠然とした将来へのビジョンと、
関東に対しての思い、
平塚市にもまた行きたいと思うようになった。

しかし母親と妹を残し実家を出ることを考えると、
行動に踏み出すことができず、
自分のやりたいことよりも家族を理由にし、
市内の安定した会社に就職が決まった。

そして、卒業式で僕たちは3年間を振り返る。

楽しかったこと、嬉しかったこと、
苦しかったこと、辛かったこと、
行き場のない怒りを感じたことも。

全てを含めこの3年間、様々なドラマがあった。

本気で僕たちに真正面から向き合ってくれた先生方、
感謝が胸の奥から込み上げてくる。

熱い感情に包まれた。

僕は3年生で学級委員長になった。

ずっと学級委員長を努めていたIが卒業間近で
クラスメイトを殴り退学になったからだ。

個性あるクラスメイト達を
まとめるのは本当に大変だったが、
担任の文吉の大変さや親心というものが
少しは感じることができた。

学校の先生って本当に素敵だと思った。

自分の人生をかけて本気で生徒と向き合い、
生徒の卒業を全力で応援できる、
素晴らしい仕事だと高校生ながらに感じた。

僕は学校の先生になりたいとは思わないが
自分が心の底から誇ることができ、
そして誰かの人生のきっかけになり、
人生で困難や壁にぶつかった時、
僕の言葉や生き様がその人の中で蘇る。

そんな素晴らしい仕事をしたいと、
当時から考え始めたと思う。

そして退場の時、
思考よりも先に言葉が出てきた。

僕は涙ながらに

『文吉今まで本当にありがとうございました!』

みんなもそれに続くように文吉に感謝の言葉を伝えながら退場して行った。

高校生活から僕の思考や考え方は、
少しずつ変わり始めた。

社会人

高校生活も終わり、
18歳から新社会人として社会に出始めた。

僕が一番最初に勤めたのは
仙台に本社を置く、
工業・漁業関係の製品を扱う卸売の会社だった。

車の免許は必須で営業兼配達という形で、
2tトラックに乗り毎日車で仕事をしていた。

その頃の自分を今振り返るとまだまだ子供で、
考え方もかなりちっぽけだった。

仕事も難しい訳ではなく、
商品知識さえ覚えてしまえばあとは配達に行き、
その繰り返しで1日が終わるという毎日だった。

この時の給料は確か13万円。

地方の初任給は大体そのくらいが普通だった。

当時はそれが良いのか悪いのかもよくわからなかったし
実家があった為、不自由なく暮らすことができた。

年3回のボーナスもあった。

会社の福利厚生もしっかりしていて、
このまま地元で暮らしていくなら将来安泰だと、
狭い世界を生きていた。

会社の人達も良い人達ばかりで、
会社自体は本当に大好きだった。

基本土日は休みで、
地元の友達と朝からサーフィンをしたり、
釣りに行き、そのあとはBBQをする。

お決まりの週末だった。

BBQが好きすぎて平日の夜でも関係なかった。

悪いこともたくさんした。

喧嘩は20歳くらいまでしていたと思う。

大きな出来事でいえば女の子に騙され、
チンピラに拉致され海に沈められそうになり、
本気で死にかけたこともある。

海岸沿いでは、
ワイルドスピードのようなカーレースもしていた。

湾岸沿いを200キロのスピードでアクセル全開で手に汗を握っていたのも未だに覚えている。

警察と追いかけっこは日常茶飯事だった。

そして人生最大は、車を大破させたことだった。

昼の仕事と掛け持ちで19歳頃から、
街中でダーツバーの仕事やお祭りの的屋の仕事、
ダイニングバーを先輩と経営したこともあった。
時間の切り売りではあったが、
色んな経験ができた。

今では良い思い出だが、
その頃は体力的にも精神的にも、
疲労はピークに差し掛かっていた。
昼の仕事を終え、
そのまま夜の仕事をし、
またそのまま昼の仕事という日があった。

僕は夜の仕事が終わり早朝間際、
信号待ちで居眠りをしてしまった。

そのタイミングで運悪くパトカーのお出ましで、
窓をコンコンされたことへの動揺で、
本能的にアクセルを全開で踏み込んでしまった。

1度走ったら振り切ってやろうと僕はその時思った。

後ろから追いかけてくるパトカーに対して
全速力で車を飛ばしていた。
信号無視は当たり前。

逃げていくうちに
色んな場所に車をぶつけながら
器物損壊に加え、車はボコボコになり
徐々にハンドルがうまく切れなくなってきた。

何回も信号無視をし、大橋の支柱に衝突しながら
最後は、新築のマンションの塀ブロックに衝突。

ボンネットから煙が立ち上がり車が動かなくなった。

この時、生まれて初めて人生で1番の恐怖を感じ
その場に車を投げ捨て全力でその場から逃げた。

流石にこの時ばかりは、

『決して逃げないマインド』は発動しなかった。

そこからとっさに信頼できる仲間に電話をし、
事情を話したところ迎えに駆けつけてくれ、
ほとぼりが冷めるまでかくまってくれた。

身元は特定されてしまっているので、
警察からの鳴り止まない電話と、
留守番電話のメッセージの恐怖が、
エンドレスで襲いかかってくる。

今思い出しただけでも2度と体験したくない出来事だ。

そして自分の中でしっかりと心を整え、
頭を整理し、その日の夕方
自ら最寄りの交番に出頭した。

週明けに市内の一番大きな警察署に呼び出され、
担当の刑事さんにこてんぱんにされた。

怒鳴られまくった。

今思えばそれは、僕の未来に対しての愛情だった。

器物損壊での請求金額は、
全て合わせて200万円近かったと思う。

なんとかその刑事さんが事故証明を出してくれ、
点数も引かれることなく保険で修理の費用も降りた。

不幸中の幸いは器物損壊だけで済んだこと。

人の命を奪ってしまわなかったことが、
唯一の救いだった。

この時ばかりは本当に深く反省し、
この日を境に車のトラブルは1度もなくなった。

免許証取り消しになることもなく、
間も無くゴールド免許になる予定だ。

きっと神様が、僕にメッセージを伝える為に
起きた出来事だったのだと
今は深く自分の肝に銘じている。

そしてこの時、
僕の窮地を救ってくれたこの仲間は
2019年12月、天国へ旅立った。

原因は仲間内の揉め事による、ナイフでの刺殺だった。

守るべき奥さんと大切な小さな命だけが取り残された。

僕は、彼の分まで生きると心に決めている。

僕の人生に手を差し伸べてくれた彼のように、
僕もたくさんの人達に手を差し伸べて生きていく。

自問自答の末に

色々あったが、
この頃の自分に不自由を感じたことは無かった。

そしてその頃から、本当の自由とは?

を考え始めるようになった。

時間が経つにつれ自分の人生に対し、

本当にこのままでいいのか?

と疑問を持つようになった。

果たしてこのまま人生を終えていくのが正解なのか?

本当に心から幸せな人生だったと言えるのか?

そんなことを考えるようになり、
気づいた頃に僕は20歳になっていた。

僕はもっと色んな場所に行き、
もっと色んな人に出会いたい。

人間としてもっと大きく成長し、
本当の自由を手に入れたい。

そんな時、人生を変えるような衝撃的な出会いがあった。

日本一人が輝く居酒屋『てっぺん』との出会い

東京への憧れを捨て切れずにいた僕は、
GWや連休があるたびに東京に遊びに行っていた。

20歳の5月のGW、僕は東京に訪れていた。

地元で15歳の時に出会い、
18歳で先に上京した親友のHちゃんが、
この日は渋谷を案内してくれた。

色んな場所に連れて行ってもらい、
その日の夜は僕が絶対に気に入るからと

そのお店へ案内してくれた。

渋谷駅から徒歩15分ほど歩き、
渋谷の奥地 通称『奥渋』に位置する居酒屋。

そのお店が、僕の人生を大きく変えた。

日本一人が輝く居酒屋『てっぺん』

このお店との出会いは僕の人生史上最高に痺れた。

まるで雷に打たれたかのような感覚をこの時初めて体感した。

そしてこれからも僕の人生の基盤だろう。

本気の朝礼、全力の営業、日本一の意識、
夢を自信満々に楽しそうに語る姿、
1つ1つの動きに一切の妥協がない、
キラキラ輝く大人達がそこにはいた。

僕は衝撃だった。

こんなに自分達に誇りと自信を持ち夢を語り、
キラキラ毎日を全力で生きていいのか。

シンプルにかっこ良すぎた。

『僕もこんな大人になりたい』

素直にそう思った。

そしてその店1番の花形ポジション、
鉄板がよく見える席に通された。

席に着くと、気持ち良すぎるくらい元気な

『いらっしゃいませ!』


が店内に響き渡った。

挨拶1つでお客様を笑顔にしてしまう、
そして元気と活力を与える。

終始僕はテンションがおかしかったのを覚えている。

僕の目の前の店員さんは会社の総料理長で、
月に4回ほどしかお店にシフトインしていない。

本当にたまたまだった。

この人のあだ名は『タイガー』

僕の人生においての恩師であり、
父親のような存在になる人物だ。

そして現在の代表取締役社長である。

タイガー?

確かに虎みたいな人だと思った。

情熱的でありながら、愛に溢れ、
そして仕事がとても綺麗だった。

僕は男としてこの人に惹かれて行った。

そして良いのか悪いのか、
ここから古川誠はまたやらかすことになる。

楽しい時間も束の間、親友のHちゃんが
22時から仕事の打ち合わせがあるとのことで
お会計を済ませ駅まで送ることになった。

僕はHちゃんを駅まで送り、そこから事件が起こる。

駅まで送ったところまでは覚えているのだが、
次に記憶が繋がったのが深夜1時だったのだ。

僕はその日飲みすぎて、
どこかで寝てしまっていたらしい。

田舎育ちの田舎坊主が東京のど真ん中でだ。

キャリーバックにリュックはもちろんのこと、
携帯・財布と体に身につけていたありとあらゆるものが無くなっていた。

奇跡的に服だけは着ていた。助かった。

しかし携帯もなければ、
現金丸々と帰りの新幹線のチケットも取られていた。

東京に友達もいないのでまさに絶対絶命だった。

どうしようもなく僕が起こしたアクションは

『てっぺん』に戻ることしかなかった。

記憶を頼りに必死にお店に向かった。

閉店が深夜の1時だった為、
締め作業中でまだなんとかギリギリ間に合った。

お店の定員さんに事情を話したが、
やはり荷物はなかった。

僕はどうしようも無くなり、
縁側で明日のジョー並みに落胆した。

そんな時、後ろから声がした。

『俺がお前の面倒見てやるよ』

そこにいたのはタイガーさんだった。

神様かと思った。

今日たまたま客としてお店に来た僕に、
なんでそこまでできるんだろう?

と疑問でしかなかった。

この居酒屋『てっぺん』という場所、
そしてタイガーという男は計り知れないなと思った。

それからタイガーさんは、
ひたすら僕の荷物を一緒に探してくれた。

仕事終わりで疲れてるだろうし、
なんでそこまでしてくれるんだ。

結局荷物は見つからなかったが、
それでも僕は人の暖かさが純粋に嬉しかった。

それからご飯と水も買ってくれた。

てっぺんの寮にも連れて行ってくれた。

タイガーさんは寝ている部屋のメンバーを叩き起こし、

『おい!みんな起きろ!面白いやつ連れて来た』

と僕を紹介してくれた。

そこで出会ったのがTさんとOさんだ。

のちにTさんは僕の一生涯の人生の兄貴になり、
Oさんはてっぺん時代胸ぐらを掴み合いながら、
苦楽を共にする大先輩になる。

それから僕たちは夢を語りながら朝まで飲みまくった。

なぜか冷蔵庫には、
シャンパンとテキーラしかなかったが、、、。

そして当時の僕は僕なりに夢や想いを語った。

それを聞いたタイガーさんが僕に一言こう言った。

『お前最高だな。てっぺんで一緒に働こうぜ。』

僕の夢を少しも笑わず全部受け止めてくれた。

僕もこんな器のでかい男になりたい。

それが僕と居酒屋『てっぺん』の出会いだ。

人生で初めての自分のための大きな決断

それからなんとかたくさんの助けにより
僕は無事、青森に帰ることができたが
母親にはこっぴどく叱られた。

今までを思い返しても母親には、
たくさんの心配と苦労ばかりかけていた。

泣かせたこともあった。

本当に親不孝な息子だったと自分でも思う。

そして、ずっと自分の中にしまい込んでいた
未来への葛藤や挑戦したいと思う気持ちに加え、

『てっぺん』との出会い。

自分の人生が大きく『変化する』と確信した。

母親に『俺、東京いくわ』

案の定、猛反対された。

しかも居酒屋で働くというのだから、
親からしたらもってのほかだろう。

会社に退職を伝えた時もかなり引き止められた。

たくさん期待してくれていたんだろう、
それが伝わってきた。

『てっぺん』に出会ってから1年後、
僕は丸3年間働いた会社を退職した。

実家を出ることも、
生まれ育ったこの場所を離れることも、
地元の仲間達と当分会えないことも、
きっと楽な道じゃないことも全てを覚悟した。

それでも1度きりの人生、
後悔する人生の方が僕は何倍も嫌だった。

そしてこのまま人生終われないと心に誓い、
21歳の誕生日を夜行バスで迎えながら青森を後にした。

居酒屋『てっぺん』の門を叩く

東京に到着したのは次の日の朝10時。

青森から東京まで夜行バスだと12時間ほどかかる。  

流石に身体中痛い。

そこから僕はその足で『てっぺん』に向かった。

僕は『てっぺん』の門を叩くにあたり、

これだけは絶対やると決めたことが2つあった。

①必ず3年以内に店長になり卒業すること

②伝説を作ること

この2つだ。

この2つはなにがなんでもやってやる。

と心の中で強く決め、拳を強く握り締めた。

そしてお店の前に着き、
深呼吸をし扉をガラガラッと開ける。

そうすると当時18歳のIが出迎えてくれた。

彼はのちの僕のライバルであり兄弟のような存在。

苦楽を共にし、同期で店長になり、
渋谷の過去最高の伝説を共に作ることになる。

メンバー達に出迎えられ新たな人生が始まった。

『てっぺん』に出会わなければ、
今の僕はないと言い切れる。

人として大切なことは、
全て『てっぺん』が教えてくれた。

『てっぺん』という場所

次の日から、本格的に現場に入ることになった。

僕は普通に靴を脱いで道場に入ろうとしたが、
すぐさま止められる。

そうすると店長のTさんがIに対して『教えてあげて』と言う。

僕はなにが?と頭の中で?が浮かびまくった。

話を聞くと『てっぺん』は靴を揃えるのも日本一。

挨拶の姿勢も挨拶自体も、
日本一の基準で行っているという。

姿勢は顎を引き胸を張り爪先はイスの影に揃え、
かかとは拳1個〜1.5個分開け、
天井から1本の糸で吊るされている状態を作り、
手指は中指がズボンの線に来るように合わせる。

そして目線は1.5m先を見つめる。

これが基本姿勢らしい。

そして入り口で必ず出勤の際に行う挨拶があり、
全員から挨拶が返ってきたら合格だそうだ。

そしてその挨拶とは、

日本一の意識を持ち感謝を込めて
元気を与える挨拶いきます!
おはようございます!

早速やってみる。

基本姿勢ができていない。

本気さを感じない。

もっとできる。

などの理由で簡単には全員から挨拶が返ってこない。

もちろん全員から挨拶が返ってくるまで、
1時間でも2時間でもやり続ける。

とんでもない会社だと思った。

その後なんとか合格しホッとすると、
今度はすぐに仕込みに入る。

『てっぺん』は仕込みから激しく元気だ。

その理由は仕込みの空気が営業を作るからだという。

確かに元気なく仕込みをしていたら、
元気に営業できるわけがない。

もっと言えばそんな営業では、
お客様に元気や活力は与えられないと思った。

とは言うものの仕込みを覚えるので精一杯。

しかも先ほどの挨拶の連発で声を出す余裕もない。

メンバーは仕込みからハイテンションで、
元気にタイムコールというものを飛ばす。

タイムコールとはそのままだが、
現在時刻を全力でみんなに知らせるものだ。

その他にも、自分が行っている仕込みに自分で目標時間を定め、その目標時間をみんなに全力で発信しコミットするものだ。

全てにおいて時間厳守、全力、元気であること。

一言で表すと戦場だと思った。

そして時間が守れない、本気じゃない、元気がない。

この1つのどれかが当てはまると、
先輩方からガン詰めされる。

ひどい時は仕込みや営業から平気で外され、
お店からも出される。

そして、仕込みが終わり賄いに入る。

賄いの時も『いただきます』だと詰められる。

人の命だけでなく食材や果物、
この世に命を授かっているもの全てに感謝する。

その挨拶がこちらだ。

天地のお恵みと、
これを作られた方のご愛念を感謝して
いただきます。

この食べ物が私たちの体の中に入って
自他共にお役に立ちますように
せーの!いただきます!

初体験だった。

そして賄いを食べ終わった後も新人には試練がある。

洗い物の争奪戦だ。

本気で洗い物のトップバッターを掴み取りにいく。

掴み合いになったこともあれば、
それで店長のTさんにガン詰めされたこともある。

とにかく怒鳴られる、そして凹むと更にガン詰めだ。

そして休憩を挟んだのち、
また全力全開で営業前の状態作りに入る。

もちろんこの時間も元気に全力だ。

そして開店30分前になると朝礼の準備に移る。

朝礼とはてっぺん流『本気の朝礼』のことだ。

朝礼と書いてるが、
実際に行っているのは開店前の20分間である。

この時間でエネルギーを爆発させ、
最高のパフォーマンスが発揮できる状態で、

最高の営業に臨むというものだ。

そして全力で本気の営業を行い、
営業後に待ち構えているのは本気の締め作業だ。

毎日、日本一の基準でお店を綺麗にし1日を終える。

もちろんこの時間も全力だ。

最後の最後まで気が抜けない。

枯れきった声でさらに声を出す。

そして締め作業が終わったら
発注や1日の振り返りを行い、
帰る時は入り口にて

『本日も1日、ありがとうございました!』

の挨拶で1日が終わると言うのが『てっぺん』の流れだ。

この流れを毎日続けたのを今考えると、
よくやったと自分に言ってあげたい。

そして更に『てっぺん』には、
社員条件というものが存在する。

これをクリアしないことには、
一生社員になることができない。

①行動力基本動作10カ条審査
(とにかく本気度が試される)

②BD審査
(ありがとうの原点は産んでくれてありがとう)

③モチベート審査
(朝礼の説明を行い相手のモチベーションを高める)

④朝礼仕切り審査
(最強のチームビルディングを身につける)

1つ1つ説明していると日が暮れるので割愛しますが、
血の滲むような努力が必要だった。

ちなみに僕は『てっぺん』に入り15kg体重は痩せ、
トイレに行くたび血尿が出ていた。

繁忙期は毎日18時間仕事だった。

僕の原点は間違いなく『てっぺん』 

全てに愛を持つこと、日本一の基準、人としての粋さ。

馬鹿になること、毎日を全力で生きること。

仲間に本気で向き合うこと。

そして、夢は必ず叶うということ。

1年目は『てっぺん』の真髄を体で学んだ。

本当にたくさんのことを教わった。

そして僕は、入社2日目で『辞めたい』と言った男である。

2年目 リニューアルにより売上激減

『てっぺん』は1年ごとに必ず店長が変わる。

店長戦というものを設け自己立候補制度により、

数ヶ月間に渡って自分自身の在り方に向き合う。

自己成長を重ね店長としての器を育て、
数々の課題を乗り越えていきながら、
最後の難関は会場にてプレゼン発表を行う。

会社役員・メンバー・業者様・お客様からの総投票で、
全ての人達から認められた者が店長になる。

まぐれで店長になることは120%ありえない。

僕も1年目から店長戦にトライしていたが、
惜しくも店長になることは叶わなかった。

その代わり2年目の店長を、
全身全霊で支える覚悟を決めた。

2年目は店舗のリニューアルがあり、
業態チェンジを行った。

しかしお客様のニーズに応えることができず、
売上は昨対の半分以下に落ち込んだ。

売上を上げるために寝る間も惜しんで、
毎日店長と共にMTGを重ねた。

改善と修正の日々。

やるべきこと、持てるものを全て使い、
必死に店舗の改善とお客様に向き合う毎日。

正直、苦しいことの方が多かった。

店長の在り方が崩れ、
本気で店長にぶつかったこともあった。

僕が本気で怒る時は

・仲間を大切にしなかった時

・自分自身の可能性に蓋をした時

だから全力の愛を込めて店長にぶつかった。

そんな歴史を乗り超えて当時の店長は、
今でも会うたびに心から愛を与えてくれる。

毎年、誕生日には必ず花を送ってくれる。

そんな店長だ。

そんな取り組みが少しづつ形になり、
徐々にお店の空気感が戻った。

その結果昨対の半分以下だった売上を、
昨対の90%ほどにまで戻すことができた。

1年間とても辛くたくさんのお客様は離れたが、
それ以上に貴重な経験を得ることができた。

2年目は苦しいこと、辛いことに
逃げずに本気で向き合うことを教わった。

そして店長になる

強烈な2年間の学びと成長に加え、
たくさんの出会いと愛に気付き、
2度目の店長戦を乗り越えて僕は店長に選ばれた。

僕は男道場・Iは向かいの系列店の店長になった。

Iは入社当初1番最初に声をかけてきてくれてから、
互いに切磋琢磨し、ライバルでありながらも互いに支え合い、

苦楽を共にし店長を志した。

そして同期で店長に選ばれた。

当時の僕は自信に満ち溢れ、
やり切ったと胸を張って言い切れた。

しかし『てっぺん』の店長は、
店長になってからが本当の始まりである。

店長は誰よりもお店のことに向き合うことが、
大前提、当たり前だった。

メンバーのコンディション・お店の状態、
些細な変化への気付き・お客様へのアクション、
基準値・数字管理・お店の空気を感じる力、
率先垂範など、上げだしたらキリが無い。

中でも、常に自分が世界一の基準を体現すること。

その姿を見せることがとても大切なことだった。

店長は誰よりも早く出勤し、
トイレ掃除をするのが1日の始まりの仕事だ。

誰でもできる仕事を店長が誰よりもやること。

そしてお店の空気を入れ替え、メンバーを迎えること。

僕が常に意識していたことは
『自分が源』ということだ。

僕が1年間を通して何を体現できたか。

今思い返しても、1つしかなかった。

常に自分が源となり
未来に対する根拠のない自信を持ち続け
目標に燃え続けることだった。

そしてチームを伝説に導くことだった。

とても厳しい店長だったと思う。

しかしその何倍もの愛で、
仲間を包み込んでいた自信もあった。

たくさん怒った。

たくさん泣いた。

たくさんへこんだ。

でも、それ以上にたくさん大笑いした。

僕の店長時代は誰よりも仲間を愛し、
仲間のために生きた。

『在り方』に向き合った半年間

最初の半年間は凄く苦しんだことを覚えている。

数字は本当に全てを物語ると思った。

最初の半年間は1000万円という月の売上を、
なかなか超えることが出来なかった。

この時の平均アベレージは930万円ほど。

この時点でここ数年で1番売り上げている代だったが、
そもそも僕が目指していた景色はそこじゃなかった。

①渋谷2店舗で歴代過去最高を叩き出すこと

②平月1000万円をアベレージにすること

③12月過去最高を叩き出す(1店舗での12月の月間売上)

1000万円を超えてくると見える景色が全然違う。

最初の半年間はいくら努力をしても、
その壁を越えることができなかった。

当時は原因が全くわからなかったが、
その原因は僕の在り方だった。

いくらやり方を変えても、いくら施策を打っても、
きっとそれ以上売上が変わることは無かったと思う。

それを気づかせてくれたのは周りからの声だった。  

時には苦しいこともたくさん言われたが、
そこから真剣に自分自身に向き合った。

その過程を経て、12月1100万円を叩きだした。

ここ数年で1番の売上だった。

僕が『てっぺん』に出会ってからは過去最高だった。 

そして渋谷2店舗の総売上は、
創業から14年間で1番売上を上げた。

つまり、歴代史上過去最高となる。

そしてそこから僕は、
自分が引退するまで平月1000万円を出し続けた。

どの代を見ても、
平月1000万円をここまで更新し続けた店長はいない。

在り方に気付き、
在り方を変革させていくことで、
そこから生み出される行動と結果も、
比例して変化が巻き起こる。

それを自分自身が1番体感した。

離婚と娘との別れ

この頃、付き合っていたパートナーと一緒になり小さな命を授った。

この時の自分は本当に未熟だった。

仕事と仲間との時間ばかりを優先してしまい、
本当に大切にすべき人達を大切にすることが出来なかった。

少しずつパートナーとの間に大きなひずみが生まれていたのを気付いていながらも修復しきれなかった。

気付いた時には手遅れだった。

相手の両親からはとにかく叩かれ何も理解してもらえなかった。

パートナーには愛想を尽かされてしまいもう元には戻れなかった。

そしてある日を界に僕の目の前から
大切な人達が居なくなってしまった。

どれだけ足掻いても一度離れてしまった心は
二度と取り戻せないことを僕はこの時思い知った。

この時ばかりは涙が止まらず
一日中家から出ることが出来なかった。

そんな夜、一本の電話があった。

その相手はタイガーさんだった。

そしてタイガーさんはこの窮地を救ってくれた。

もうダメだ、最高。
ここまで落ちたらあとは上がるしかねーだろ。
最高じゃねーか。

この言葉から今の僕には何が残っているのか思い出せた。

『俺には、まだ仲間がいる、、、。』

その日の夜は、雨の音が優しく鳴り響く夜だった。

僕の人生はどんな時も必ずどん底から這い上がる。

伝説は終わり次の代へ

怒涛の店長時代も幕が降り、
また次の代へと受け継がれた。

僕は1ヶ月だけ会社に残り、
引継ぎや新店長の育成に携わった。

こうして店長は脈々と血が受け継がれていく。

僕は新たなステージに進むため、
2019年7月いっぱいで居酒屋『てっぺん』を卒業した。

てっぺんに出会わなければ、

『人は変われるという可能性に気付くこと』

『夢を持つ素晴らしさ』

『自分の在り方に向き合うこと』

『本当の仲間と愛情』

これらを今も分からないままだった。

『てっぺん』との出会いは僕の原点。

人として大切なことは、

全て『てっぺん』が教えてくれた。

『コーチング』との出会い

『てっぺん』を卒業した僕は、
自分の力でどこまでいけるのか試してみたかった。

僕はこの社会において一体何者なのか?

世界中にどんな影響を与えることができるのか?

それを探すために様々な環境や思考に触れ、
がむしゃらに情報をかき集めた。

そして探し続けているうちに、
僕は『お金』にこだわり始めるようになっていた。

自分を見失いかけていた。

どうしたらお金を稼ぐことができるのか、
株や投資、ビジネスと言われるものは手当たり次第、足を突っ込んだ。

たくさんの時間とお金を使って必死に人生にしがみついた。

しかし走っても走っても、
僕が手にしたかったものはどこにもなかった。

自分自身が何者なのか。

本当にしたいことはなんなのか。

ぼんやりと見えなくなった。

てっぺん時代の誇りや自信は失われ、
未来に対する根拠の無い自信すらも失った。

今までどれだけ周りの存在に助けられていたのか、自分の無力さを痛感した。

必ず成功すると『てっぺん』を後にし、
出会うすべての人達に夢を与えると決めたはずだった。

成功の定義すら分からなくなった。

そして、生きている意味さえ分からなくなった。

この時、僕に残ったのは数々の失敗からの学びと多額の借金だった。

そんな時出会ったのが『コーチング』だった。

僕はコーチングに出会い、自分自身に向き合い、

何度も何度も問いかけることで少しづつ自分を取り戻そうとした。

本当はどんな人生を生きたいのか?

自分にとっての幸せとはなんなのか?

1度閉じこもった心の殻を破るのは簡単じゃなかった。

それでも未来への希望だけは、
何があっても絶対に諦めなかった。

僕にとって生きるとは、

『未来への可能性を決して諦めないこと』だった。

そして時間をかけ、
やっと答えを明確に取り戻すことができた。

『もっと自分の感情に素直に生きて良い』

そうコーチングは僕に教えてくれた。

そして、コーチングが僕に人生の使命を与えてくれた。

こんなところで絶対に負けられない。
古川 誠はまだまだこんなもんじゃない。

『コーチング』は再び僕の魂に火をつけた。

『GOAL-B』との出会い

僕にコーチングを与えてくれたのは
株式会社GOAL–B 最高執行責任者 COOの 山宮です。

彼に出会ったのは僕が『てっぺん』2年目の頃です。

お互いまだ若く尖りまくっている頃に出会いました。

彼は今も昔も、
僕の可能性を120%信じてくれる最高の仲間です。

山宮がいなければコーチングに関わることも、
株式会社GOAL-Bに出会うこともできませんでした。

そして僕の可能性を信じ受け入れてくださり
常に挑戦すべき環境を与えてくれた、

AKIOさん・松田さんを始めGOAL-Bのみんな。

本当に出会えたことに感謝します。

そして気付けば間もなくGOAL-Bに出会い1年が経ちます。

この1年間を振り返りたいと思います。

僕は2020年7月21日に正式にGOAL-Bにジョインした。

この頃はまだGOAL-Bはたった6人の組織だった。

AKIOさん・松田さん・愛美さん

柳楽ちゃん・前野ちゃん・健太朗

そして7人目のメンバーとして仲間に加わることになり、
気付けばもう間も無く1年になる。

GAOL-Bでの約1年は僕にとってはとても苦しい1年だった。

何が苦しかったかというと、
常に自分との葛藤をし続けたこと。

GOAL-Bという組織にジョインしてくるメンバーは本当に凄い。

そもそものポテンシャルとスペックが桁違い。

比較するつもりは無くても嫌でも比較してしまう。

それぞれが高い能力を持っていて、
才能に溢れていてキラキラ輝いていた。

「負けたくない」

正直、そんな毎日の中で生きてきた。

劣等感・焦燥感・息苦しさ

そんな感情に心臓を常に鷲掴みされていた。

僕は何だったら結果を出せるのかとにかくがむしゃらに生きた。

そして辿り着いたのは「数字」だった。

「てっぺん」時代も数字で結果を残してきた。

そして僕は入社2ヶ月で個人売り上げ過去最高を達成した。

そして入社して4ヶ月目で
健太朗からコーチング事業責任者のバトンを引き継ぎそこからも事業の数字を上げ続けた。

前月比でいくと利益率300~400%UPと大幅に事業が成長した。

現在もコーチング事業の売り上げはそのラインを保持し続けている。

そんな形で僕は「数字」「結果」にこだわっていた。

しかし、一向に心が満たされない日々が続いた。

まるでどれだけ水を飲んでも喉の渇きが収まらない感覚。

その状態は半年近く続き2020年が幕を閉じた。

そして、年は明け2021年。

2021年は僕の人生において
大きな転機となる年だと確信していた。

当時グローバルコーチングというコーチングスクールに通っていた。

「世界のリーダーとコーチのための塾」

このスクールでは僕が最年少だった。

周りは経営者の方や
様々な会社の役職を持つような方々が
集まっているそんなスクールだった。

僕にとってこのような環境は
大きく成長するために不可欠な環境だった。

無意識的に外部の方々と関わることの重要性を持ち始めたのはこのスクールがきっかけだと思う。

多様な価値観を持った同期との関わりや
雑談の中で素直に繋がりを広げていくことが楽しいと感じることができた。

このスクールは約半年間のカリキュラムで
瞑想のワークが半分ほど、
残りの半分は同期とのセッションや自分自身に深く向き合うワークでした。

1月~2月のワークの中で免疫マップというワークがあった。

端的にいうと自分がずっと抱えている
「心的コンプレックス」を抽出するものだった。

僕のコンプレックスは
「自分には才能が無い・能力が無い」と思い込んでしまうことだった。

まさに、その通りだった。

しかしそれがどこから来るものなのか?

更に深い所まで入っていく。

そこに居たのは25歳の頃の自分自身だった。

25歳の頃の僕は何も恐れるものはなく、
がむしゃらに手当たり次第にどんなことにも足を突っ込んでいた。

その結果手にしたものは大きな借金と様々な世界の知見だった。

しかし手にしたものの代償は大きく、
僕は「自分には才能が無い・能力が無い」と思い込み
その経験から全てに自信が無くなっていたことに気付いた。

そしてずっと心の奥底ではその自分の存在に気づいていて、
その自分に対しての怒りの感情や苛立ちがずっとあった。

「お前のせいで」

ずっとそう生きてきたんだと気付かされた。

悔しかった。情けなかった。

そんな自分が許せなくて苦しかった。

そこからファシリテーターが誘導してくれた世界は
その自分に対して「感謝」を伝えてくださいというものだった。

僕はもう一度25歳の自分に会いに行った。

その自分は居酒屋「てっぺん」のカウンター席で
最高の笑顔で相変わらず大きな夢を語っていた。

僕はその隣に座り、彼と話した。

そして「感謝」を伝えた。

「ありがとう」

その時、大切なことに気づいた。

25歳の当時の自分が居なければ、
単純に今の自分は存在できていないと思った。

大きな借金も、たくさんの失敗から得た様々な知見も手に入れて今に至るまで苦しみや葛藤がまとわりついて来たのは確かだけど、だからこそまた立ち上がることができた。

GOAL-Bに出会い再び成長の機会を与えてもらっていること、
未来への希望だけは決して諦めることなく何度でも立ち上がれること、
人生はここからだとそんなメッセージを受け取った。

凄く温かい気持ちになることができた。

今までの自分を許すことができ、
確かに一歩前に進む感覚を得た。

「25歳の自分、本当にありがとう」

そしてこの1~2月はこれだけじゃなかった。

健太朗が愛を持って厳しいことを真剣に伝えてくれたり、
エナジャイズの秦さんとの出会いで自分の器の小ささを痛感したり、
ゆうじさんが本気で向き合ってくれたり、
とにかくこの2 ヶ月間が本当に強烈で人生で初めて言葉が出ないという経験をした。

究極の状態は本当に言葉が出なくなることを学んだ。

この1ヶ月間は挫折と這い上がることを何度も何度も繰り返した。

そんな強烈な時期を乗り越えて3月になった。

心と体が軽くなっていることを感じることができた。

この感覚はいつぶりか覚えていない。

全ての考え方や見え方がシフトし始めた。

とにかく「素直さ」「判断なく」を徹底的に意識した。

苦手だった本も読むようになった。

嫌いだった筋トレも365日継続すると目標を掲げ毎日ジムに通うようになった。

人の意見も葛藤しながらもできるだけ素直に受け入れれるようになった。

そして同時に様々なことが良い方向に動き始めた。

2021年12月26日に300人規模で講演会を開催することを決断できた。

2021年4月~CRAZY SHIFTという組織を立ち上げ法人化することを決断できた。

AmazonのKindleでの電子書籍のオファーも頂けた。(2022年の3月頃出版予定です)

そしてこれからもっとワクワクすることが起こる予感がしてたまらない。

現在地

そして現在どんな場所にいるのか?

GOAL-Bとしては引き続きパーソナルコーチングの提供を行います。
この1年間を通しての実績は以下です。

・クライアント数 全て含み170名以上
 →(無料・有料・継続・紹介・セミナー・イベント・スクールetc…)
・セッション数で700セッション以上。
・セッション時間で1200時間を超えます。

僕は背伸びもしなければ、
どんな時もクライアント様に対し等身大のありのままの自分で向き合わせて頂きました。
僕の生き様は共感されづらいことも多々あるかもしれません。

それでも、多くの方々が僕の生き方や生き様に共感してくださり今の僕が在ります。

これからも多くの方々に自分の生きてきた証と挑戦を続ける姿勢で、
コーチとしてクライアントの人生に大きなインパクトを起こしていきます。

熱狂的な人生を共に歩んでいきましょう。

そしてコーチング事業責任者を退任し、
現在は法人向けサービスの開発とトレーニングにも携わっています。

今までto C向けのサービス展開を行なってきたGOAL-Bですが、
これからはto B向けのサービスでも更に世の中に大きな価値を提供していきます。

僕個人の動きとして次項でも書いていますが、
2021年4月〜事業の立ち上げを行い法人化に向けて動いていく中で、
経営者向けのコーチング提供にもシフトしていきます。

組織名は「CRAZY SHIFT」

事業内容は主にWebマーケティング・コンサル・デザイン制作です。

詳しい事業内容や事業立ち上げの想い、
理念についてや今後の展望については
noteに記載しているのでぜひご覧ください。

有難いことにすでに数社・数名の方々から
ご依頼を頂くことができています。

全身全霊で信頼を積み上げながら世の中に価値を提供していきます。

代表の古川・舟瀬を始め、
各事業部のメンバー一丸となり家族のような会社を創っていきます。

お仕事のご依頼もぜひお待ちしております。

▼CRAZY SHIFT 立ち上げの想い
https://note.com/mkt0455/n/n97a0e0be170a

これから

冒頭にも書かせて頂いた通り、
僕の人生は決して綺麗なものではありませんでした。

高学歴があるわけでも、
突出した才能があるわけでもありません。

でも紛れなく言えるのはこれが僕の才能。

「何者でも無いからこそ何者にでもなれる」

未だに喉が渇き続けており、
一生満たされることはないのではないかと思い始めて来ました。

よく聞く言葉で
「自分が満たされてないのに周りを満たすことはできない」

こんな言葉を聞きますが、捉え方次第だと思います。

物理的に満たされないものは力技で押し通そうとしても
心が苦しくなるだけなので捉え方を変えました。

「満たされないからこそ未来を諦めず這い上がり続けることができる」

僕はそう捉えています。

そして、
つい最近僕のここまでの人生の話をした際に
こんなことを言って頂けました。

「どうしたらそんな風に成功できるんですか?」

驚きと同時に凄く複雑な気持ちになりました。

僕からしたらまだまだこんな現状は、
成功の「せ」の字にも満たない。

胸を張って、成功しているというにはまだまだ程遠い。

けれど、少しでも僕の生き様や人生に触れて頂いた中で
誰かの活力や勇気、人生が前に進むきっかけを届けることができるならそれは嬉しいです。

僕はもう綺麗事を並べるのは辞めました。

自分に嘘をつき続けるのは本当に苦しいからです。

だから声を大にして言います。

僕は別に誰かの為に生きていない。

僕は「僕自身の未来」の為に生きている。

その結果、人の役に立つというのが正しい。

綺麗事を並べて生きることよりも
僕は自分らしく生きることにコミットメントする方が
何倍も幸せです。

例え周りから人が離れていこうが、
応援されなくなろうが、
誹謗中傷を受けようがこのスタンスは1mmもぶれない。

僕は絶対に負けないし、
必ず本当の意味での成功を掴むまで地獄の底からでも這い上がる。

認められなくても賞賛されなくても構わない。

周りの意見や考えはその人達の価値観や考え方であって、
何が正解かなんて誰かが決めつけるものではない。

「自分が自分の人生を正解にしてやれ」

綺麗事を並べて、周りの意見に流されて
なんとなくそれなりに生きていく人生なんて僕はいらない。

苦しくても認められなくても、
自分の人生を貫き通して最後の最後まで
全力で泥臭く「命」を燃やし続けている人間が1番かっこ良い。

うまくいかない時期なんて誰にでも必ずある。

大きなダイヤモンドの原石はその重さゆえに
バネを深く深く縮めていつか必ず大きく飛躍し輝きを放つ。

心から生きることを素晴らしいと言える人生を歩もう。

僕は誰よりも全ての人たちの可能性を信じ、
生きることの素晴らしさを体現していく。

「生きるを素晴らしく」

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古川 誠

コーチング事業部長株式会社GOAL-B
株式会社GOAL-B コーチング事業責任者。 人生を大きく変えるため青森県から上京を決断し、日本一人が輝く元気な居酒屋。 「居酒屋てっぺん」に入社。 2年で渋谷店 店長の座につき店舗経営をする中で、チームマネジメントを駆使し通算で店舗史上最高売上を叩き出す。 個人の能力の最大化、チームのパフォーマンスの向上を得意とする。 その経験からコーチとしてのエフィカシーも高く、クライアントのエフィカシーと人生を爆裂的に加速させる。 コーチングにおいて大切にしていることは「信頼関係」 安心感に溢れクライアントの人生に本気で向き合う、愛と情熱が特徴のコーチ。 「より人生を熱く・より世界をおもしろく」をモットーに、多くの人の人生に「命の時間」を燃やすことを決意。 自分自身の壮絶な過去から人には無限の可能性があり、必ず変わることができるということを誰よりも体現する。