自分のことが嫌い、劣等感だらけの僕が筋トレで人生が変わった|近藤公利

初めまして、近藤公利(こんどうきみとし)です。
1990年7月30日山梨県甲府市に生まれ、その後も山梨で育ち、現在も山梨でフィットネスクラブの取締役、個人でパーソナルコーチングを提供しています。

生きがいは「筋トレ」。僕の人生のエネルギー源となっています。
フィジーカー、ボディビルダーとしてコンテストにも出場しており、筋トレが大好きです。

今の僕は、筋トレとの出会いがなければ存在していないかもしれません。
筋トレによって身体が変わった、自信がついた、ということだけでなく、人生を変えてくれた恩人と引き合わせてくれたこと。
そして、人生を掛けて熱中できるものとして出会ってくれたこと。本当に感謝をしています。

今の僕のことを知っている人は、

  • 向上心
  • 未来志向
  • 熱い
  • まっすぐ
  • 前向き
  • 厳しい

こんなイメージを持っている人が多いかもしれません。
しかし、過去の僕は、

  • 周りにが気になる
  • できないことは恥ずかしい
  • できない自分はダメな奴
  • 自分の事が嫌い
  • 自分がわからない
  • 不安
  • 孤独
  • 劣等感

こんな言葉が当てはまります。
そして、そんな風に見られたくないという強い思いがあり、「本来の自分」と「それを隠そうとする自分」に大きなギャップが生まれ、ずっと悩み続けていました。

そんな僕は、人生の大部分を他人軸で生きてきたと感じてます。
人前で、自分をさらけ出すことはせず、あまり弱みを見せない。悩みを見せることもしない。

「悩みが無さそうだね」
「人生楽しそうだね」
そう言われることもたくさんありました。

そんな風に言われる度に、偽りの自分が確立されていく感覚があり、とても虚しかったです。
それでも僕は、周りの目を気にし、人によって態度を変えようとしていました。

そんな自分は、過去には今とは真逆の「夢を追いかけようとしている人を見ると嫌悪感を抱く」ような、そんな最低な人間でした。
今でこそ自分のやりたいことを追いかけられるようになっていますが、当時の僕は「これが自分なんだ、自分は嫌なやつなんだ」と思いながら過ごしていました。

「本当はこんな自分になりたい。」
「もっとこんな日々を過ごしたい。」
「でも、それは叶わないこと。」
「自分はこういう人間だから。」
「自分にはできないから。」

と自分自身を諦めさせ、「今の生き方が一番安心できる世界だ」と思い込み、生きてきました。

本当に自分のことが嫌いでした。
そして、そんな自分を隠す為に必死でした。

そんな僕は、ダイエット目的で始めた筋トレで人生が大きく変わり始めたのです。
正しくは、一人のおじさんとの出会いが人生を大きく変え、そのおじさんとの繋がりが「筋トレ」だっただけなのかもしれません。

この記事は、学歴も夢も何もなかった、平凡で自分の事が大嫌いな僕が何年もかけ、もがきながら変わったことを伝えるお話です。

30年間の人生を振り返り、言葉に書き起こすと文字数2万文字を優に超え、自分が思っていたよりも多くの出来事、経験をしてきたことに気付きました。
そして、無意識に自分の過去に蓋をし、気づかないフリをしてきたこともたくさんありました。

こんなにも価値のある人生を歩んできていたんだと、実際に歩んできた事実と思い込みのギャップの大きさも感じました。

書きながら、自分の過去に目を背け、進まない箇所が何回もあり、涙が自然とこぼれることもありました。

この記事は、まさに自分の30年間の軌跡であり、生き様です。僕の全てをここに書き出しました。
僕と今まで関わったことのある人、ない人も、僕に対してのイメージが変わるかもしれません。

自分は何も成し遂げていない、挑戦なんてできない、自分の事が嫌い、そんな風に思っている、あなたにこそ読んでもらいたいです。
そして、僕と同じように本当の自分との人生を歩んで欲しいです。

過去の僕と同じように、

  • 本当の自分がわからない
  • 自分の事が嫌い
  • 他人軸で生きている
  • 何となく日々過ごしている
  • もっとこんな自分になりたいと思っている
  • 心のどこかでモヤモヤと得体のしれない不安を持っている

そんな不安があるあなたも必ず変われます。僕も同じ悩みや不安があり、苦しみも知っています。
そんな僕でも変われました。今は多くの人の人生の変わるきっかけに僕がなりたいと強く思います。

こんな過去を生きてきた僕だからこそ伝える価値がある。
少し長くなりますが、僕の30年間の人生の旅にお付き合いください。

幼少期

生まれも育ちも山梨県。
山梨県はフルーツ王国とも呼ばれていますが、そんな王国を支えているブドウ農家の長男として生まれた。
生まれたときの体重は3960g。とても大きな赤ちゃんだった。

生まれた頃の家は、お風呂を薪で焚き、その薪を掘りごたつで使ったり、2階はビー玉を転がすとコロコロとしっかり転がるというかなり趣のある家だった。
めちゃくちゃ優しい曾祖父母と祖父母。そして、まあまあ破天荒な両親に育てられた。
小さい頃の思い出は、写真嫌いで、保育園に行くのがとても嫌で毎日大泣きしていた。
おしゃぶりが4才まで手放せなかったこと。つまり甘えん坊だった。
そのおしゃぶりを辞めたきっかけは妹が生まれたときに「お兄ちゃんになるから」と自分で神棚に置いたらしい。

小学生時代

  • できないことは悪いことだ
  • 怒られるのは恥ずかしい
  • できない自分はダメな奴
  • やりたいと思うとひたすらやり続ける

小学生の僕はこんな少年だったが、この時は自覚はない。

基本的にはとても活発な少年。放課後は毎日、友達と帰り、家には友達がよく遊びに来ていた。
両親も人に迷惑がかからないこと以外は「ダメ」とは言わなかった。
口うるさく言わないから、友達もよく家に遊びに来ていたんじゃないかと思う。自由にさせてもらっていた。

強烈に周りの目を気にする

小学2年生からは少年野球に所属し、結果的に野球は高校まで続ける。当時の僕を知る人から良く言われるエピソードがある。

自分でも明確に覚えているのは、練習のウォームアップの時にできない動作があった。その動作がどうしてもできない。
できない自分が恥ずかしくて、悔しくて、その場にいてもたってもいられなくなり、グラウンドから泣いて逃げ出した。
小学生にしては足が速かったので、大人達からも逃げ切ることに成功し、何時間も夕方まで一人で隠れていたことを覚えている。

今まで、このエピソードは笑い話として過ごしてきたのだが「できないこと」に対し、猛烈なストレス感じ、「できないことは悪いこと」「できない自分は恥ずかしい」と人の目を基準にしていた。

この頃からすでに僕は周りの目をバチバチに意識し始めていた。
先生や指導者に怒られることが、とてもいけないこと、恥ずかしいことだと認識し、怒られないようにどう過ごすか、こんなことばかり考えていた。

そんな思いもあり、練習中、試合中関係なく、【ミスが怖い、怒られたくない】という思いしかなかった。
緊張すると手汗をかく方も多いと思うが、この頃は手汗が尋常ではなく、野球のグローブが手汗によって、手を入れる所がボロボロになってしまう程。
外側はまだ使えるのに中がボロボロになってグローブを買い替えるのは珍しいのではないかと思う。

スイッチが入ると止まらなくなる

そんな周りの目を気にする反面、スイッチが入ると周りが見えなくなり没頭することもあった。

実家の裏には山がある。
小さい頃の思い出として誰もが虫を捕まえようとしたことはあるのではないか。僕も同じく虫を捕まえることが好きだった。
ある日、本当に大きなトカゲを見つけた。今まで見たことのない大きいトカゲ。

「捕まえたい」スイッチが入った。

捕まえようと試みるが、普通に捕まえようとしても捕まえられない。動きが素早く、岩場が多く、すぐに隠れてしまう。

「よし、なにか違う作戦だ!」

近くから何かの幼虫を見つけてきて、それを罠におびき出すことを思いついた。
罠を隠れた岩場の近くに置き、僕は身を隠し、トカゲが出てきたところを捕まえる。罠を仕掛けても結局逃げられてしまったが、ひたすら何時間も費やした。

こんなこともあった。
「変化球を投げたい」と、夜中に急に思い立ち、画用紙1枚1枚に変化球の握り、曲がり方、どんな場面で効果的かなどをイラストに描いたことがある。
気付いたら朝だった。その日は大晦日だったことを覚えている。

中学校時代

自分へのギャップ

内側の自分と外側の自分とのギャップがあった。
「できる奴だと思われたい」こんな気持ちが強かった。
自分は周りからどう見られているのか、と、外側の自分をつくることばかり意識していた。

そして、なるべくそのことを周りに気付かれないようにと気を使っていた。
外側の僕は勉強も運動もそこそこ出来て、誰とでも話すことができて友達も多い。いつも活発で割と目立つメンバーに属していた。
先生たちからの印象もめちゃくちゃ良かったと思う。これにはとても自信がある。なぜなら特に先生たちの目を気にし、いい子になろうとしていたから。

対して、家での自分はいつもイライラしていた。反抗期とも重なっていることもあるかもしれないが、このイライラは数年間続いた。親にも妹にも祖父母にも、いつもイライラしていた。特に妹は最近まで、まともに話さないくらい怖がっていた。
内側の自分はよくわからなくなっていた。家族に見せる自分と、家族以外と接する自分は別人になっていた。

学校で怒られた数少ない思い出

基本的には、先生や先輩といった個人的権威の目を気にすることが多かった。
そんな僕も1回だけめちゃくちゃ怒られたことがある。
この出来事は怒られるとわかっていながら起こした行動だった。

夏休みの美術の課題として、絵を書いてくるという課題があった。
なぜかは思い出せないが、その課題に対して、どうしてもやる気が起きない。仕方がないので何もやらずに夏休み明けの授業に臨んだ。
やってこなかった生徒は理由を発表していくのだが「忘れていました」という声が多い中、僕は「やる気がありませんでした」としっかりと伝えた。心からの本音だ。

めちゃくちゃ怒鳴られた。
でも、最後にその先生が言った一言を今でも覚えている。

「一番、正直だったのはあいつだ」

周りの友達からは「なんで正直に言った?そりゃ怒られるでしょ」とも言われたが、怒られることもわかっていたのに、なぜ正直に言ったのかはわからなかった。
でも、この時はなんだかすっきりした気持ちがあった。

本当は、こうやって周りを気にすることなく、自分に正直に生きていきたかったんだと思う。
そして、そんな僕を褒めてくれたような気がして嬉しかったのかもしれない。

けど、自分の内側をさらけ出すことは怖かった。できないことが多い自分を出すことは出来なかった。
そんな僕を見てどう思われるのか怖かった。周りの目を気にしてそんな勇気がなかった。
正直に生きることへの憧れなのか、悪いことをする勇気はなかったが、ちょっとしたあがきで夜遊びはしていた。
夜遊びをし、悪いことをしていると感じることでバランスを取っていたのかもしれない。

なにかを乗り越える快感

この頃、好きだったことは身体を動かすこと。
運動神経は良かったので、その領域で褒められようと頑張っていた。
体育の授業での長距離走、部活動の走り込み、ただの遊び、家に帰ってからのトレーニングなど、どれも手を抜くことはしなかった。

部活動でも、ただの遊びでも、家でのトレーニングも汗びっしょりになるまでやっていた。

【何かを一生懸命やることで得られる達成感が好きだった】

何もノルマとか課せられてなくても、自分で目標をつくり、ひたすらそこを目指していた。学園祭が近づくと家の周りをグランドに見立てリレーの練習をしていた。歩幅で200mを測ってまでやっていた。やりだすととことんやる。

僕の原動力は

  • やり遂げた感
  • 人からの評価
  • 劣等感

一生懸命にやれば、周りの人も褒めてくれる、認めてくれる、そんな気持ちも強かった。

  • もっと良くなりたい
  • いい結果を残したい
  • やり遂げたい

という欲求があり、自分がやることはなるべく最高の成果を出したいという思いも強かった。これは幼少期から無意識に働いていた。

中学生の頃から、野球やトレーニングの専門書を読んだり、インターネットで調べて、トレーニングメニューを組み、インターバルトレーニングやアジリティトレーニング、インナーマッスル腕立てなどの筋トレをしていた。

自分がやることへの効果を高めるために、中学2年生くらいからプロテインも飲んでいた。

振り返りをしながら「今とやっていることと一緒じゃん」と気づいた。
今と大きく違うのは、これらのことは絶対に誰にも知られたくなかった。

プロテインを練習の後にも飲みたかったけど、周りの目を気にして飲めなかった。
プロテインを飲んでいることや、ひそかにトレーニングをしていることを知られることが恥ずかしかった、ひそかに頑張っている自分を知られるのは嫌だった。

目立ちたい、認められたい、すごいと思われたい、その原動力に対して、最大の結果を求めることに対しての熱量は大きいものがあった。
その反面、頑張っていることが何の成果にも繋がらないことへの恐れも大きかった。

「あんなに頑張っているのに、何もやっていないあいつの方が上手い」
こんな風に思われるんじゃないかと思っていた。陰でやっていることがわからなければ、失敗しても「やってないから仕方ない」そういう保険をかけようとしていたんだと感じる。

中学では、中心選手として活動し、市の代表選手としても選ばれていた。自分がやったことが認めてもらえることが多く、褒めてもらえることがとても嬉しかった。

周りの目を気にするあまり、やりすぎてしまうこともあった。

元々、小学生のころから腰が悪かった。
中学3年間の部活動は終わり、後輩との引退試合か何かだったと思う。
勝負もなにも関係ない試合だった。腰はあまり動かさない方が良かったのだが、ピッチャーをやった。試合中も違和感しかなかったのだが、そのまま試合に出続けた。

「すごいと思われたい」「認められたい」そんな思いが強く、自分の事を冷静に見ることができなくなっていた。

その結果、腰の痛みは普通の生活に支障が出るほどになっていた。その腰の痛みが引かないまま、高校に入学することになる。

いつからか、他人の軸を中心に生きている自分がいた。
他人の軸で生きている自分とは、このまま大人になるまで付き添うことになる

高校時代

大きな悩み

人生で初めての大きな悩み。【友達ができない】

高校は野球推薦で入学した。他のメンバーも推薦が多く、入学式前の春休みから新入生も野球部の練習に加わる。しかし、腰の状態はまともに動けるような状態ではなかった。

入学早々、指導者に練習に参加できないことを伝えることはできなかった。
数日は練習に参加したと思うが、我慢できるレベルはとうに過ぎていた。
意を決して、練習に参加できないことを伝えた。次の日からは、ひたすらマシンへのボール入れと端っこで腹筋/背筋を毎日何時間もやっていた。

他の新入生はみんな練習に参加している。
ただ一人練習に参加しないことで、僕とみんなの距離はどんどん離れていった。これまで人間関係で悩んだことはなかったが誰とも話せない。

みんなは辛い練習を毎日一緒に乗り越えている。僕はグラウンドの端で休んでいる。負い目しかなかった。

自分から話しかけようにも、何を話していいかわからない。
負い目があり、そもそも話しかけられない、どんどん孤立していった。自分自身がチームの最底辺だと思っていた。
みんなの輪に入れないことがこんなに苦しいことだと身を持って感じた。
これまで当たり前のように、友達がいて、何気なく話しができていたことが遠い昔のように感じていた。
「これが孤独と言うんだ」と初めて認識した気がする。

部活動の時間は地獄のように感じていた。学校で野球部のチームメイトとすれ違うことも嫌だった。
あまりにも嫌すぎて、授業の間の休憩やお昼の時間はほとんど自分の席から立つことは無かった。

この時は、家に帰っても苦しかった。毎日、夜になると泣いていた。
腰の痛みが引かないストレス。周りになじめていないストレス。何もできない自分に対しての怒り。
どこへぶつけていいのかわからない。そんな怒りの矛先は家族に向けられた。
親も病院や整骨院まで送り迎えをしてくれていたが、この時はたくさんの暴言を吐いたと思う。本当に申し訳ないと思う。

今振り返ってもこの時の数カ月は苦しく、一生続くと思っていた。
この苦しみの終わりはあっけなかった。

怪我からの復帰

腰の怪我が治り、練習に参加し始めると周りの反応も変化していった。
僕自身も変な負い目も感じなくなってきて、話しをすること機会が多くなってきていた。

「お前、こんなに話す奴だったの?」

そんな風に言われて、やっと今までの自分でいられるようになった。
それと同時に、話すことが好きなんだと感じた。怪我が治ってからのチームメイトとの関係は何もなかったかのように良好だった。

練習が終わると、コンビニやファミレスに寄って、何時間もくだらない話をしていた。
自分が輪の中にいることの安心感、認めてもらえることの安堵を感じたことを覚えている。
同じ環境の中で、こんなにも心境が変化した経験は今ではいい思い出になっている。
こんな影響もあり「チーム、組織、集団」に対する思いは強くなった。

「なんで、こんなことさせるんだろう」

野球は本当に練習時間が長い。意味のわからない規律もたくさんある。
1時間以上のウォームアップ。誰かがエラーしたら連帯責任。試合に負けたら帰りは走る。点数取られた分だけポール走。

「なんのために?」こんな気持ちもあったが、これをやり抜いたときの達成感は嫌いではなかった。

手を抜くチームメイトもたくさんいたけど、これは手を抜いたらもったいないと必死にやり抜いていた。
どんな罰も「これはこうやったらもっと効果が上がるかも」「どんな呼吸法をすれば一番効率がいいんだろう」「走り方は?」と、こんなことを常に考えていた。

個人的権威やルールに対しての忠誠心と、やり抜くこと、やり切った時の達成感が混同し始めていた。
外圧の影響をもろに受け、他人から与えられたことをやることに喜びを感じ、他人から認められることを求めるようになっていた。

「自分から何かをやりたい」という思いは、全くと言っていい程なくなっていた。

筋トレとの初めての出会い

正直、野球は嫌いだった。
でも、この時は自分の心の中に仕舞っていた。
嘘だと思いたかった、嫌いなことをやっている自分を認めたくなかった。

でも、実際は、「バッティングや守備の練習、試合中も怒られたくない」ということに常に意識を置いていたので、全然楽しくなかった。
心からやりたいことではないため、選手としては全然結果を残せなかった。

唯一、楽しかったのが筋トレだった。
筋トレも練習の一環としてあったのだが、指導者が監視している訳でもなく、そもそも怒られない。通常の練習と比べれば休み時間みたいな感じだった。

本気でやっている人は少なかったが、僕はしっかり追い込んだ。
中学の頃から家でこそこそやっていた筋トレを器具を使ってできるのは、本当に楽しかった。
使える重りも上がっていくし、身体も変化していく、やり切ったあとの達成感も最高だった。

高校時代はフィジカルトレーナーがいたのだが、偶然にもこのトレーナーは中学の頃から飲んでいるプロテインの代理店の人だった。しかも僕の担当の人。
ある日、トレーニングルームでプロテインの話しになり、僕が中学生の頃からプロテインを飲んでいることがチームメイトに知れ渡った。
その場から逃げたくなるくらい嫌だった。

「え、お前プロテイン飲んでるの!?」
こんな一言でも馬鹿にされているように感じていた。
さすがに高校生なので、逃げることはなかったが本当に嫌だった。

将来に全く興味がない

部活動も終わり、あっという間に進路を選ぶ時期になった。
僕は進学を全く考えておらず、就職しか考えてなかった。理由は単純で、勉強をしたくなかったからだ。
将来の為とか、未来のことは一切何も考えず、今まで嫌だったからやりたくない。

何をやりたいか、なにも決めていない。自分の未来に関してもあまり関心がなかった。
どれだけ自分の将来に興味がなかったというと、就職先を生徒指導の先生に決めてもらうほど。

本当に目指すものがなかった。
どこに行きたいとかもなく、どんなことをしたいとかもなく、とりあえず地元の工場に就職することを決めた。

高校3年間部活をやり抜いたこと、内申点も良かったこともあり、就職先から不採用になることは全く考えていなかった。
その自信も当たり、無事、自分の意思は全くなく、就職先が決まった。

会社員時代

規律からの解放

就職先は、地元の工場。会社自体の規模は大きく山梨の工場だけでも従業員数は800名くらいいた。
所属された部署は、9年ぶりの新人ということでみんな年上だった。運がいいことに職場の人はいい人が多く、とてもかわいがってくれた。

小さい頃から個人的権威の目を気にしてきたせいか、年上との会話はあまり苦手に感じたことはない。
しかも、あまりにも年が離れている先輩たちだったので本当に話やすかった。

社会人になり弱い自分を隠そうといろんなことをする

学生時代は先生や先輩、その他多くのルールによって、抑制されてきたことがなくなった。
それにしっかりと従ってきた僕にとっては、それだけで自由になれた気がした。

髪色をシルバーにしたり、服装もイカつめに、歩き方や態度にも出していた。
この頃の趣味は車をいじることだったが、その車をいじることも「目立ちたい、俺はこんな人間なんだ!」って内側にないものを、一生懸命外側に発していた。
お酒も毎回、全力で飲んだ。元々強かったこともあるが、周りに強いと思われたいと思っていた。

毎日、お酒を飲んで、朝帰りをしてそのまま仕事、ということも珍しくなかった。
そんな生活が自由であり、本当は弱い自分を隠すためにとっていた行動だった。

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筋トレの再開

毎日お酒を飲む生活。
好きなものをいつでも食べる生活。
こんな生活を数年間続けていくうちに、見た目はどんどん変化した。

高校時代、筋トレにハマって、そこそこいい身体の自分はいなくなっていた。

見事なワンパックでサラリーマンの一員になっていた。

「これはまずい!」とダイエットを開始する。
学生の頃は嫌だった練習か、楽しい筋トレか、という選択肢だったので自然と習慣となっていた。
だが、社会人になると楽しいことが多すぎる。遊び、お酒、ギャンブル(パチンコもハマっていました)、楽しすぎて全然抜け出せない。

筋トレを始めては、数日で終わり、やってもまた続かない。こんな期間が1年近く続いた。
しかし、やる時はしっかりと追い込むので1年もやっているとうっすらと腹筋も見え始め、身体にも多少の変化があった。

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身体の変化も感じてきて、スイッチが入った。

そこからは週55回は筋トレをしていた。
この辺りから、本やネット、YouTubeで得た情報を筋トレに独学でトレーニングをしていた。

工場の勤務は朝6時から14時までの早番と、14時から22時までの遅番を1週間交代で勤務していた。
早番の時は、勤務が終わり会社の敷地内にあるジムで2時間程トレーニング。
遅番の時は、残業が終わり、深夜1時ごろから実家の6畳の自分の部屋で主に自重トレーニングをやっていた。

この期間で、ある一定の身体までは変化したのだが、変化が頭打ちになった。
モチベーションも下がり、惰性になってきたある日、テレビに出ているマッチョが目に飛び込んできた。

このシーンは明確に覚えている。
「ノンストップ」という番組に、当時のベストボディジャパンの優勝者、シェレン・イースン・裕太さんが出ていた。
見た瞬間に「この人にみたいになる」と決めたことを覚えている。

ジムへ入会

その日から「今のままのトレーニングじゃだめだ」と思った。
パーソナルトレーナーをやっている友人がいたので、すぐに連絡をし、実際にパーソナルトレーニングをしてもらった。

この時の心境の変化は今でも覚えている。
これまでも友人がトレーナーをしていたのは知っていたのだが、お金を払ってまで教えてもらおうとは考えていなかったが、この時の行動は早かった。
そして、実際にパーソナルトレーニングを受けてみると、今までのトレーニングとの違いをめちゃくちゃ感じた。
いつもより軽い重さで、次の日の筋肉痛が半端じゃなかったことを覚えている。

会社にあるジムはダンベルは10㎏までで器具も数個あっただけなので、友人に相談したところ、「ジムに入会したほうがいいよ」とのことだった。
早速、ジムに入会。それが、2015年7月の始めだった。

恩人との出会い

ジムに入会すると、見たことのないかっこいい器具と大きな鏡に映る自分。そんな環境でトレーニングできることが嬉しかった。
これまでトレーニングはずっと一人でやってきたので、周りに人がいるというのも新鮮だった。
身体が変化し、少し自信もついてきていたので、それを見せることができるのも嬉しかった。

このジムに入会したことで、僕の人生を変えてくれた恩人と出会う。

その恩人は、普通のおじさん(Mさん)だったが、他の人とは明らかに見た目が違っていた。
背は小さいのだが、身体はゴツゴツで肩や腕、脚など、まん丸なのだ。どうやら、その人は元ボディビルダーでアジア選手権2位を獲ったことのある凄い人。
Mさんとは、少しおしゃべりさせてもらうようになっていた。

ある日、いつもと変わらずジムでトレーニングしていると、その人が僕にこんな言葉を掛けた。

「君は世界を目指しなさい」

どんな会話の流れだったのかは覚えていないがこの言葉は強烈に覚えている。
最初は何を言っているのか訳がわからなかった。だって、ダイエット目的で始めて、ジムに入会してまだ数日。

その時の身体もまだまだこんな感じ。

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「この身体で世界を目指せって、いやいや、このおじさん何言ってだ?」って思っていた。会ってまだ数回だし、話しをしたのもせいぜい数十分。
その人のことを、信頼をしていたか、心を開いているかと言われたら全然だった。

でも、なんだかこの言葉が心の奥にスッと入ってきた感覚を覚えている。

当時はなぜ、そんな風に感じていたかはわからなかったが、今では認識することが出来る。

認めて欲しいという気持ちが強かった僕は「心から僕の存在を認めてくれた」そんなことを感じた。

今まで周りの人の目を気にして、周りと比べて生きてきた。
何をしてもそこそこの成績だった。
自分に自信を持つこともできなかった。
自分の事を否定しながら生きてきた。

そんな僕にとって、このたった一言はとても心に響いていた。

軽い感じで言葉を掛けられたわけではなく、Mさんは本当に僕の未来が見えているかのように話をしていた。
Mさんの言葉、話し方、雰囲気、すべてが僕のことを認めてくれている気がした。

この時は気付いていないが、このたった一言が僕の人生を大きく変えるきっかけとなる。

とても嬉しく、心に響く言葉でモチベーションは上がったが、これまで積みあがってきたマインド、行動はそう簡単には変わらなかった。

言われたその時も、「いやいや、僕なんか」と笑ってごまかす感じ。
でも、Mさんは、変わらない姿勢で、そんな僕と関わりを持ち続けてくれた。

そんな関わりに対して、
「コンテストは来年ですかね」
「もう少し大きくなってから出ます」
「いま仕事が忙しくて」

ありとあらゆる言い訳をして、挑戦から逃げる理由を見つけていた。
本当は出たい。でも自分なんかまだ早い。」そんな気持ちだった。

出るか、出ないか。
グダグダ、モヤモヤしているそんな僕とMさんの会話を聞いていた別のおじさん(Tさん)がこう言った。

「近ちゃん、俺ね、ずっと睡眠時間3時間くらいだよ」

Tさんは、50代を超えて、今も現役でボディビルを続けている人だった。
家族を養い、仕事も忙しい、トレーニングもハードにやっている。そんな人に言われて、もう言い訳が見つからなかった。

コンテストに出場

「コンテストに出る」という決断をした。
出場するコンテストは9月に開催される「ベストボディジャパン さいたま大会」に決めた。

ジムに入会し1ヶ月後のことだった。
ベストボディジャパンの優勝者に憧れてトレーニングを始めたが、自分がコンテストに出ることは思ってもみなかった。
出るにして、もう少し身体が大きくなったらと考えていた。そんな僕が今から2カ月後にコンテストに出る。

そこからの筋トレ、減量は全く別物になっていた。
今まで、ダイエットはしてきたが減量なんてしたことがない。

【でも、やるしかない】

とりあえず、食事を変えるぞ!と炭水化物を無くし、1日800カロリーくらいの食事でコンテストまで過ごした。

本当につらかった。
今の知識があれば絶対やらないけど、当時は炭水化物減らせば体重落ちるじゃん!有酸素運動だ!これが減量だ!って思っていた。
みるみる内に体重は落ちていった。それに伴い身体のしんどさもどんどん増していった。
写真を見てもわかるが、ポージングも何もかもわからなかった。

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(↑見よう見まねでやったフロントポーズ)

毎日フラフラになりながら仕事に行き、睡眠が浅く、疲れも抜けない。
この時期に受けた健康診断の結果が異常すぎたこともいまだに覚えている。
この時、あまりにも力が出なくて仕事で注意を受けた。当時の上司に「お前が好きなことをやるのはいいけど、周りに迷惑かけるな」って言葉をもらった。

まったくその通りです。本当にすみませんでした。
でも、この時はぶっちゃけ仕事なんてどうでもいいと思っていた。

この時も、ネットやYouTubeで減量の方法を自分なりに調べていたけど、自分に合った方法を見つけるのは至難の業なんだと身を持って感じる。
そして、改めてすごいなと感じるのが、Mさんは決して自分からアドバイスをくれなかった。
何か質問をすると「僕はこうしてきたよ」とは言うけど、こうした方がいいとは言われなかった。

Mさんが自分から話しかけてくることはなかった。
「教えてくれよ!」とも思ったが、それでも、めちゃくちゃ愛を感じていた、そしてどんどん信頼していた。
だって、トレーニング中に鏡越しでチラッとMさんを見ると遠くからでも見てくれているんだ。
マシンに隠れている場所でも、少し顔をズラして見てくれていたのを僕は気付いていた。その姿に気付いたときは、めちゃくちゃ嬉しかった。

これからはMさんの言葉だけを信じてやり抜こうと思った。
これまで信じてきたYouTubeやネットの情報は一切、見ることもなくなったし、気にしなくなった。
一昔前の理論だったかもしれないけど、この時にやり抜いたトレーニングは今でも僕のトレーニングの土台となっている。
メイン40セット、1種目5セットの8種目、インターバルは1分。これを数年続けていた。

そして、書きながらこんなエピソードを思い出した。
ある日、Mさんの身体が締まってきていたから、声を掛けたらこんな言葉が返ってきた。

「あれ?Mさん身体締まってきました?」
「僕も久々に減量しようかと思って」
「なんか、あるんですか?」
「近藤君が減量しているから、見せつけてやろうかと思ってさ」

こんな会話を笑顔でしてくれた。心から嬉しかった。
絶対に逃げない。マジでやってやるって決めた。

このMさんの僕への関わり方、在り方、存在は、人の成長に関わる人間として、お手本のような人だった。
そんな関わり方を身を持って感じたのは、僕の一生の財産だと思う。
きっと、Mさんは、アドバイスが無意味なことを知っていた。
自分自身で決め、もがき、必死に前を向くことの重要性を身を持って教えてくれていたんだと感じる。

コンテスト当日

そんなこんなでいよいよコンテスト当日に。
この数カ月間は、トレーニング、有酸素運動、食事、ポージング練習、すべて、やり切った。本当にやり切った。今までの人生で一番、エネルギーを出し切った期間だった。
やれることはやった。仕上がった身体に対しても自信があった。
なによりもこの期間、妥協せず、逃げずに立ち向かってきた自分自身が誇らしかった。

早朝から、電車に乗り、決戦の地、さいたま県大宮市に向かった。
会場に着くと、ものすごい人数の黒いマッチョがそこにいた。
当時のベストボディジャパンは全国でまだ16ヵ所くらいでの開催だったので、1つのコンテストへの参加者の数が凄かった。

確かエントリー者数は1000人を超え、書類選考を通過した300名がその場にいた。一気に気持ちが高揚し、身体が熱くなった。
会場に入り、控室に案内される。当時、山梨県ではコンテストに出ている方は多くはなく、マッチョを目にする機会がなかったので、狭い空間にたくさんのマッチョがいるのは異様な空間だった。

ここで不思議な体験をした。
初めてのコンテスト、初めての土地、初めての環境で、これから大勢の前に立つのだが、思ったより落ち着ていた。

「俺ならいける」根拠のない自信が内から湧き出ているのがわかった。

数時間に及ぶ、ステージングも終わった。
結果は、ファイナリスト15名に選出。入賞は出来なかったがこの時はめちゃくちゃ嬉しかった。

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(↑背中には自信あり)

目標に向かって過ごした数ヶ月の充実感、本当にやり切った自分自身への称賛、「自分で変われた」という自信、言葉では表せられない感情がどんどん湧き出ていた。
コンテストの終わりに食べたつけ麺はマジでうまかった。ただ、この時の減量は今後本当にしたくない!(笑)
2015年にコンテストに出場し始めてから2020年を除き、毎年出場している。

コンテストの思い出

筋トレとコンテストは僕にとってたくさんの気づきがある場。いくつかコンテストでのエピソードを話したい。

2016年7月30日 初めてのフィジーク

自分の甘さに気付けたコンテスト

7月30日、このコンテスト当日は僕の誕生日だった。
このスケジュールを見たときに運命を感じた。

彼女は誕生日をお祝いしてくれることは知っていた。だからこそ、僕からのちょっとして恩返しは優勝をプレゼントしたいと思っていた。
そんな気持ちとは裏腹に、昨年の初めてのコンテストで絞れたから、少し余裕をこいていた。いや、慢心していた。
コンテスト1ヶ月前になっても、減量に必要のないものを食べまくっていた。

そして、迎えた当日。
仕上がりにも情けなかったが、それよりもそこに至るまでのプロセスを悔やんだ。
「優勝して彼女を喜ばせたい」そんな気持ちと伴わない行動。ステージに上がる前から優勝に値する気持ちではなかった。

結果は3位。本当に自分が情けなかった、悔し涙も出なかった。

そして、彼女に言われた一言

「ここで負けているようじゃだめだね」

この一言はめちゃくちゃ効いた。
でも、この場面で、この言葉を掛けてくれた彼女には本当に感謝している。
この一言で、もう一段上のステージに上がれた。出場したコンテストで少しいい成績を獲ってきていた僕にとって、この経験は大きなターニングポイントだった。その日の悔しさは、トレーニングノートを見返してもわかる。

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2017年8月3日 JBBFオールジャパン日本選手権

初めての全国大会

2015年に初めてコンテストに出場してから「まずは日本のトップを獲る」ことを1つの目標にしていた。
そして、その先にある世界を目指していた。

恐らく、世界という旗を掲げていなかったらこんなにも早く日本トップの舞台に上がろうとは思いもしなかった。

この時のオールジャパンは出場資格はなく、誰でも参加できたというのが記憶にあるが、そもそも選択肢にも上がってこなかっただろう。

日本のトップを目指す中で、もっともっと自分を進化させたいと思い、毎月高速バスで原宿のゴールドジムに行き、パーソナルトレーニングを受けた。
トレーニングを終えると、すぐバスに乗って帰る。毎月そんな感じでパーソナルトレーニング旅行を楽しんでいた。
また、当時の僕の階級のフィジーク王者の湯浅さんにもパーソナルトレーニングを数回申し込んだ。
「この人を超えてやる。」という思いを、もっとイメージしたいと思ったからだ。

コンテストまでの減量は、原宿でトレーニングを担当してくれているトレーナーさんが親身にサポートしてくれた。

この時の調整は僕の身体のコンディションを見て、ディプリートという糖質を取らずにハードにトレーニングをする調整方法を実施した。
糖質と水分量の緻密な制限。

この時も辛かったな。本当に辛かった。

一番、しんどかったのはコンテスト前日の夜。早めに寝ようとベッドに入るも眠れない。
ウトウトして目を開けるとまだ数分しか経っていない。この時には、もう既に、この日の食事と水分の規定量は達していた。

極限の状態だった。何回もベッドから起き上がり、机の上にある水を飲み干しそうになる。何回もペットボトルの蓋を開けては閉めた。

「ここで飲んだら、ここまでの数カ月が台無しになる」
「これを耐えきれば、最高の状態でステージに上がれる」

こんな言葉を何十回、何百回かけ続けてたかわからない。
生きていて一番長い夜だった。

やっと朝が来た。
フラフラ、スカスカな身体の状態に、朝から栄養を送り込む。仕上がりは過去最高の状態だった。

そこからは計画通りの食事を進めていった。
極限の状態を乗り切った僕はエネルギーも高まり、心も昂っていた。
会場に着くと、雑誌やYouTubeで見ていた有名な選手がたくさんいたが、「この人達を倒してやるんだ」という気持ちでいっぱいだった。

実際に控室に入り、目の前にトップ選手たちがいると、少し不安な気持ちにつぶされそうになる。
「今までやってきたことが無駄になったらどうしよう。」

ここでMさんが言っていたことを思い出した。

「コンテストは身体1つで競うんだけど、ステージの袖から出た瞬間の印象で決まるんだよ。身体だけではなくて、自信や雰囲気、その選手から醸し出されるすべての物が、会場、審査員に伝わるんだ」って言っていた。

これまでのプロセスや昨晩の事を思い出した。

「必ず俺ならやれる」

Mさんは離れていても、言葉とその存在で、僕の心を一押ししてくれた。

オールジャパンは「ピックアップ審査」「予選」と、2回勝ち上がらないと決勝に進めない。

ピックアップ、予選と、1つ、また1つ勝ち上がることが出来た。
そして、大きな目標の1つ。本当の日本最高の舞台に上がる権利を手にすることが出来た。

ここまで来たら、もう出し切るだけ。
このステージの数分間は楽しかった。この人を倒したいという思いもなく、ただこの場を楽しむ。この場で出し切るだけだった。

コンテストのいいところは、心の底から周りの人をリスペクトできることだ。
365日分のたった1日、さらに評価されるのはステージに上がるたった数分だけ。その為にみんな辛いことやしんどい経験をしてきている。
たった数分のために毎日のトレーニング、食事、休養、マインドセット、健康管理。
これだけのことを緻密に、地道に続けても、トップになるのはたった一人。

こんな厳しい世界を目指す選手たちと同じステージに立ち、全力で勝負できることが幸せでもある。

結果は5位。

初めての全国での舞台。
結果には満足はしていないし悔しい思いもいっぱいだったが、出し切れた。
気持ちも強く、本当に充実感に満ちていた。

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(↑写真は2018年度のJBBFオールジャパン選手権)
初コンテストの写真と見比べてみると身体もポージングも変わった。

パーソナルトレーナーへの転職

理想と現実の違いに気づく

筋トレにハマるにつれて、自分の未来についても考えることが多くなってきた。
最初は「今の仕事を続けていたら、筋トレの時間があまり確保できなくなるな。」と感じる程度だったが、筋トレへの熱量と今の仕事に対する熱量に差があることが気持ち悪かった。

そんなある日、職場に従業員のお子さんたちが職場見学に来ていた。
その姿を見ていてふとこんな言葉が頭によぎった。

将来、自分の子供が僕の仕事姿を見たときに、「パパかっこいいだろ?」って胸張って言えるか?』

まったく想像できなかった。
工場で働いている姿がかっこいい、かっこ悪いではなく、自分自身の仕事に対する考え方、向き合い方がめちゃくちゃかっこ悪かった。
すべての仕事、作業をこなしているだけだった。自分が何をつくっているのか知らなかった。どんな風に使われているのかも、なんとなくしか知らなかった。

休みが待ち遠しく、給料だけのために働いていた。
僕が思う、かっこいい姿とはかけ離れた未来の僕がそこにいた。
一度、そんな風に思ってしまうと、そこにしか意識が向けられない。

「このままでいいのか」
「どうすればかっこいい姿になるのか。」

「自分の得意なこと、熱が注げることを仕事にしよう」

そう思った。

今まで、他人軸で生き続けてきて、周りの目を気にしてきた、そんな僕が自らの意思で踏み出そうと思った一歩だった。
この決断も筋トレのおかげだと思っている。
退職を決意してからは、仕事、筋トレ、減量、NSCA(トレーナーの資格)取得の勉強、と更にハードになった。

この時は仕事9時間、筋トレ3時間、有酸素2時間、勉強3時間、その他移動や日サロなど含め、睡眠時間は4時間になっていた。
きつかったけど、自分のやりたいことに向かって行動をしている自分がエネルギーが充満しているのは感じられた。
毎日、「今日もやり切った」こんな思いで眠りについていた。
学生時代、勉強嫌いだった自分が毎日ファミレスで勉強しているのは、なんだか不思議な感覚だった。
そんな両立の甲斐もあって、NSCAの試験には合格することが出来た。

退職を決断してからも、職場のみんなへの報告がなかなか進まなかった。
僕の職場は工場の中でも職人作業が多かったため、一人前になるのに比較的時間がかかる部署だった。
当時、その職場は残業も多く、僕一人抜けることでその人に負担がかかるのは目に見えていた。

その為、僕を育ててくれた先輩に報告するのは、とても気が重たかった。
すごく、言いづらかったけど、その先輩は「自分のやりたいことが見つかって良かった、頑張れ!」という声を掛けてくれた。
8年間同じ部署で働かせてもらい、本当に良くしてもらった。
今でも一緒に働いていた方の結婚式などのイベントにも声を掛けてもらえて、本当に感謝している。

パーソナルトレーナーとして活動

こうして工場勤務のサラリーマンを辞め、パーソナルトレーナーとして働くことになるのだが、次に働き始めたジムは結果的に8カ月で退職することになる。
目標であったパーソナルトレーナーとして働き始めたのだが、僕はいきなりギャップを感じ始めていた。

工場に勤めていたときは全世界に工場があり組織自体も大きな会社であり、福利厚生や労務管理などは細かく徹底されていた。
つまり、僕自身は与えられた目の前のことだけ覚えて、その他のことは他の部署の人たちがやってくれていた
僕はそんな世界で8年間働き、自分がとても守られている空間で、目の前のことだけやって働くことそれが当たり前だと思っていた。

パーソナルトレーナーはクライアントにトレーニングを教えて身体を変える、好きなトレーニングし放題、みたいに考えていた。
そんな当時の僕は不満ばかりだった。そんな思いは態度にも表れていた。自分が井の中の蛙だったこと、未熟だったことを今となっては痛感する。
この経験が今となって、組織やチームをつくる上での自分の糧となっていることは紛れもない。本当に自分の愚かさを知ったいい経験だった。

新天地へ

8カ月で退職をしたのだが、実際に退職を考えていたのは、数カ月前だった。
都内に行くか、県内で活動をするか、迷っていた。そんなある日、古くからの知人と話す機会があった。
その人は、今度フィットネス事業を始めるかもしれないと話をしていて、その時はそうなんだな、ぐらいに聞いていた。
数カ月した時、また話す機会があり、その人の夢ややりたいことなど話しをしてくれた。

その時、初めて人の夢に共感した。一緒にやりたいと思った。
数日後「一緒にやりたいです」と声を掛けさせてもらった。

山梨県初の24時間ジムの立ち上げ

新しく入社した会社は立ち上げ段階だった。事業としては24時間営業のフィットネスジム。
当時、山梨県にはこういった形態のジムはなかった。その立ち上げに携われたことは今でも大きな経験となっている。

小学校の3つ上の先輩が代表取締役、小学校からの大親友が取締役、そこに僕が加わった。

何を言われても「できません」が口ぐせ。

僕は、自ら旗を振り人をまとめたこと、リーダーという立場になったことがなかった。
できないことは恥ずかしい。できない自分はダメな奴。幼少期からのマインドはここでも発揮された。

「キミちゃん、店舗のマネージャーだからね!」
「え、僕がですか?できません。」

「今日から面接やってね」
「え、やったことないです。できません。」

筋トレ以外のことに関しては、いまだに自信が持てていなかった。
やったことのないことに対しての恐怖。自分にはできない。恥ずかしい。こんな思いでいっぱいだった。
しかし、この2人はこの後も僕に任せることを与えてくれた。

店舗責任者として

その後はトレーナーもやりながら店舗のマネージャーとして業務にあたるが、たくさんの壁にぶち当たる。

「めちゃくちゃ怖かった」

この言葉は僕を表す言葉として、特に1店舗目の僕のマネージャー時代を知っているメンバーのみんなから言われる。

当時の僕のリーダーのイメージは、統率、指示、偉い、上に立つ人、動かす人、そんな「THE・トップダウン」
そんなリーダー像しか知らない、そんな風になろうとしていた。それこそがリーダーだと思っていた。
【できない自分を隠したい】という気持ちと【強く見られたい】という気持ちがあいまって、言葉、態度、表情、すべて本当に怖かったと思う。

実際に、僕のことを直接ではないけど、バイトの方々に不満を言われていたこともある。でも、それでいいと思っていた。

「僕が悪いと思うことは悪い」

自分でも目を覆いたくなるくらいのトップダウンだった。
そんな僕との関わりを経て、今でも一緒に働いてくれているメンバーには本当に心から感謝している。
このメンバーと出会い、ここまで一緒にやってこれたから、今の僕がいる。
この時と今では変わらない強い想いがある。それは「もっと組織、チームを良くしたい」ということ。この思いは一貫して自分の中にある。

トレーナーからマネージャーへ

そんなトップダウンのマネージャーは、ある時からほとんどパーソナルトレーナーとしては業務をやらなくなった。
今までは1日数本のパーソナルトレーニングの間に管理業務を行うといった、1日通してやることがあった状態だった。
そして管理業務が主になり、危機感を感じた。

「やることがない」

管理業務なんてたかがしれている。毎日何時間も費やすほどの業務量もない。
ただ、トップダウンで自分が間違っていると思うことを指摘する日々だった。
しかし、メンバーのみんなも業務を覚えるうちに自分たちでどんどんできるようになっていく、時間だけが過ぎていく日々。

「自分の存在価値ってなんだ?」

自分の存在、自分自身がなにをやっているのかわからなくなっていた。
そして、自分自身が何のスキルもない人間だと感じていた。

そんな自分のことを周りのメンバーはどう思っているのか。

「なんで、あいつは仕事してないんだ」
「もっと仕事しろよ」

そんな風に思われているんじゃないかと不安ばかり募っていた。
そんな不安を周りに気付かれないように日々過ごしていた。

チームをつくる難しさ

そんな不安を心に抱えながら2店舗目の出店計画は進み、新店舗の立ち上げを任された。
オープンのスケジュール、オープンメンバーの募集/研修スケジュール、業者とのやり取りなど、立ち上げのほとんどを任された。

無事オープンを迎え、2店舗目のマネージャーとしての日々が始まった。
1店舗目の立ち上げ時は、しばらく取締役の二人が店舗にいたのである程度、空気はつくれていた。
1店舗からの異動のメンバー、新しく入社したメンバーどうやってチームをつくっていくべきか、いろいろ考えた。

この時は会社の理念や個々の思いを大事にする、ことを意識していたと思う。
実際に今も残ってくれているメンバーは、この時期は一人ひとりの時間を取ってくれていた、よく理念の話しをしていたと言われる。

この時も、何のスキルも根拠もなかったが「このチームを良くしたい」という気持ちだけは強かった。
理念に関する話や、マインドに関する話し、みんなで話し合う場、個人との話し合い、雰囲気作り、そして良い組織をつくりたいという強い気持ちは裏目に出るときも少なくはなかった。1人1人を干渉したマイクロマネジメント、感情で話してしまうこともあった。

オープンをしてから2カ月後には2名辞めていた。僕に対する不満や愚痴も多く聞かれた。
この時はとても落ち込んだ。実際にそれらの言葉を聞いた日は朝まで一睡もできなかった。

それ以外のメンバーは、満期まで働いてくれて、今でも一緒に働いてくれているメンバーもいる。
だが、この時は「俺にはリーダーとしての価値はないのかな」と思っていた。

人生を歩んでいると孤独を感じるときがある。僕もたくさんの孤独を感じてきた。

「周りに誰もいない。助けて欲しいときに手を指し伸ばしてくれる人がいない。」

そう感じていたときは、自分が一番この世で不幸なんじゃないかとも思っていた。
でも今振り返ると、一番孤独だと感じていたのは、【自分が何者かわからなかったとき】だった。
モヤモヤする、急に不安になる、何がやりたいのかもわからない、どうすればいいかわからない。
でも、日常の生活は何もなく時は流れていく、僕だけ取り残されているような感覚だった。

焦りと不安の毎日、どうすればいいかわからなかった。
この気持ちは何度も僕に襲い掛かる。

筋トレ以外は自信がない

筋トレに対する自分は

  • 挑戦
  • 辛いことを乗り越える
  • 覇気がある
  • 他を寄せ付けないオーラ
  • 集中力
  • 俺ならできる
  • 根拠のない自信
  • 自分に厳しい
  • 継続
  • 向上心
  • 追い込む
といった言葉が思い浮かぶ。

しかし、筋トレに打ち込む中でこんな悩みも大きくなっていった。
筋トレに対しての自分と、それ以外の領域に対しての自分のギャップを感じていた。

「なんで、筋トレ以外は自信がないんだろう」
「筋トレに対しての自分で、365日24時間過ごせたらいいのに」

こんな風に思っていた。
筋トレではフィジークで日本トップの舞台に立ち、ボディビルでは県内で優勝という結果。
人生では2度の転職。フィットネスジムの立ち上げ、パーソナルトレーナー、マネジメント、チームビルディング、経営、コーチングと、あらゆる経験をしてきている。あらゆる経験をしてきているはずなのに自信を持つことが出来なかった。

自信がない中でも、あらゆる経験を乗り越えることが出来てきたのは筋トレがあったからだと感じる。
こんな辛いことを乗り越えてきた、やり遂げる力がある、これだけ身体を変えてきた、こんな思いが僕を支えてくれていた。

筋トレをやっている僕こそ、自分自身であり、アイデンティティにもなっていたんだと感じる。
どんな時でも、筋トレがエネルギー源になっていた。筋トレをやっている自分自身のことは大好き。めちゃくちゃかっこいいと思っている。

でも、それ以外の自分は好きになれなかった。
「もっともっと自分自身のことを好きになりたい。」そう思っていた。

コーチングとの出会い

自分の存在価値、リーダーとしての資質、それらを見つけられないまま、月日は進んでいった。
「なぜここまで自分に自信が持ちきれないのか。」そんなことをずっと考えて過ごしてきた。

そんなある日、Instagramで見つけたある人の投稿が目に留まり、何か熱いものを感じた。
そのまま体験セッションに申し込んでいた。

その人はコーチングを提供していた。
その人からコーチングを受ける中で、自分に対しての評価と、周りからの評価に大きなギャップがあることに気付けた。

幼少期から事実を捉えるのではなく、その事実に対して周りからの評価や声を気にするあまり、自分で解釈を書き換えてしまっていた。

「やったことのないことに対して自信を持ってはいけない。」
「自分自身で成し遂げたこと以外は自分の成果ではない。」

フィットネスジムの立ち上げ、パーソナルトレーナー、店舗の管理、マネジメント、チームビルディング、経営などは【自分で成し遂げたことではなく】その時の環境で【与えられてきたこと】だった。
もちろん、自分の意思で「やります!」とは伝えてきたのだが、すべての物事の発信は取締役からの提案や環境の変化だった。

本音を言うと、僕自身、取締役の二人に何かを進言するのは、心のハードルが高かった。
小学校からの仲ではあるが、入社から今まで、この二人に【学ばせてもらっている】という気持ちが強く、与えられたことをやることが当たり前になっていた。
そんな環境に慣れてしまい、自分の言葉で【やりたい】と伝えたことがなかった。

挑戦しないことが楽、失敗はしない方がいい、与えられたことをやっている方が楽、こんなことを考えてしまっていた。
そしてこの考え方が当たり前となり抜け出せなくなっていた。
この考え方は幼少期~高校時代の僕の深層部に無意識にこびりつき、自分では気付くことはなかった。
意識と無意識の間にある大きなギャップが、得体の知れないモヤモヤとなって、僕を襲っていた。

筋トレに打ち込む中で僕は心の底から輝いている本当の自分を知ったからからこそ、このギャップに気付けた。

本当の自分はこんな事を心で感じていた

  • 大きなゴールを掲げ、旗を立てることは、それだけで原動力になる。

  • 燃え滾るような熱い思いで、何かに夢中になることで結果は付いてくる。

  • なにかに挑むことをしない限り自分の成長はない。

  • 何かに立ち向かっている時こそ、心は踊っている。

  • 自分が立ち上がり続ける限り、失敗なんてない。
そして、これらを体現している自分自身のことが好きだと気付いていたのにも関わらず、その気持ちには蓋をしていた。

筋トレに向かう僕は、これらを全て体現していた。
だから、筋トレをしている自分が大好きで、そんな自分で毎日いたいと感じていたんだ。
これが「筋トレに対しての自分」と「それ以外の領域に対しての自分のギャップ」の正体だった。

自分で認識できた時、得体の知れない不安はなくなった。
自分で自分を知ることで、無意識下でやっていた自分の行動にも気付けた。

こうやって言語化してみると、僕の本当の自分が求めている欲求と、筋トレによる効果が合わさって、僕の最大のエネルギー源になっている事がわかる。

こうやって、新たな自分、いや、元々そこにいた本来の自分自身に気付けた。心の底からコーチングの良さを感じた。
自分で気付けない部分に気付け、自分に自信を持てた。マインドも行動も変わっていく。
コーチングはどんな人にも絶対に必要だと強く感じた。

これからの挑戦

コーチングを受け、たくさんの気づきと、自分に向き合う時間が増えた。

【このままでは一生、自分の事を好きになれない】

コーチングを受け数カ月後、こんな行動を起こした。

【取締役の二人に自分のやりたいことを初めて伝えた】

もちろん、そのまますんなりOKとはならなかった。

ここに至るまでも多くの葛藤があった。

「本当に自分が成し遂げることが出来るのか?」
「自分がやる必要があるのか?」

と、不安に襲われることもあった。
しかし、自分がやりたいことを掲げ、決断することで行動が生まれた。

【今まで誰も成し遂げたことがないからこそ、自分がやる価値がある】
【僕だからこそ、やる意味がある】

こんな言葉を自分自身に掛け続けていた。

【無敵の組織にする】

現在は、自分自身で掲げた、その旗に向かって行動をしている。
組織に属する一人ひとりが自分の人生をより自分らしく、幸せに生きることがその組織の本当の価値となる。そう強く思う。

そして、その組織自体に目指す理念があり、その理念に向かって、メンバー全員が向かっていく。
その組織にはなんとなくいるメンバーはいない。

どこかの組織と戦って、ナンバーワンを目指すのではない。
その場にいるメンバー全員がつくりだす

  • 雰囲気
  • エネルギー
  • 言葉
  • 行動
これらこそ、その組織の本当の強みであり、オンリーワンの組織として、社会にとっても、働くメンバーにとってもかけがえのない存在になるのだと心から信じている。

僕は、その領域の専門家でもなく、何の知識もない。
しかし、決断をしてからは【やるしかない】という気持ちで行動を起こしている。

【人は変われない】と思っている人が多い、僕もずっとその一人だった。
でも、今は必ず【変われる】と思っている。一人ひとりの個人が変われる。
つまり、個人が集まっている組織も変わることが出来る。

一人が変わるだけでも大きな変化…組織にいる人全員に変化が起きたらと、その先にある未来を考えるとワクワクしてくる。

世の中の多くの人は、会社の愚痴をこぼす。でも、本当の会社って、もっと素晴らしいものだと思う。
素晴らしい会社がこの社会には少なすぎて、みんな勘違いしている。

会社は、自分自身が人の役に立てる最高の場所。

普段、生活をしている時には、役に立つことって嬉しいはずなのに、一番人の役に立てている「仕事」をそう認識していない人が多い。
これはきっと寂しいことだと思う。

もっと仕事をしている自分自身に価値を感じていい。
もっと仕事をしている自分の価値を届けていい。

多くの人が「仕事」にやりがいを感じ、もっと自分の価値を多くの人に胸を張って届けて欲しい。

人間は一人で成し遂げられることには限界がある。
でも、会社は人の役に立つことの出来る人が集まっている。
一人の限界なんて簡単に突破することが出来る。

そんな会社に自分の居場所を感じることが出来たらどれだけ幸せだろうか。
僕が一人では何も成し遂げられなかったからこそ、多くの人との出会い、支えがあって今の僕がいる。
だからこそ、心からそんな会社をつくりたい。

家族の存在

妻とは、筋トレに熱中する以前に出会い、付き合い始めた。
付き合い始めの頃は、美味しいもの食べに行ったり、居酒屋に行ったりとごく普通のデートをしていた。

そんな彼氏が、いきなり「コンテスト出るわ!」と言い始め、筋トレに打ち込むことになる。
平日も休日も関係なく、3時間トレーニングに行き、食事は卵や胸肉。
遠出をしても弁当を持参し、同じ食事を取ることはほとんどなくなった。
お互いの誕生日は7月とコンテストシーズン。一緒にケーキを食べることもない。

その後も
「転職するわ」
「トレーナーの勉強するから遊べない」
「筋トレは生きがいだから」
「起業するわ」
と、出会った当初とは、どんどんかけ離れた言動を繰り返していく。

僕は、一度言ったことを曲げない頑固なところがある。彼女からしたら青天の霹靂だっただろう。
この他にも、多くのことがありすぎて書ききれない。ここまで多くの出来事があったし、たくさん謝らなければいけないこともしたし、本当に心から感謝している。ここまで付いてきてくれてありがとう。

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2020年1月、そんな最愛の妻との間に娘が生まれた。

数年前に頭をよぎった将来、自分の子供が僕の仕事姿を見たときに、「パパかっこいいだろ?」って胸張って言えるか?』

これから数年後、この子が僕の生き様を見たときに、かっこいいパパになれているかな?

生まれてから1年半。あっという間に歩けるようになり、お話ができるようになり、これからも、転んでは立ち上がり、また、転んでは立ち上がる。
そんな風にたくさんのことができるようになっていくんだろうな。
これからも、きっとたくさんのことに挑戦してどんどん成長していく。

そんな娘を見て、【僕は大人になってから何回、転んだんだろう、何回膝擦りむいたっけ】って思った。
まだまだ転び足りない、もっと起き上がらないと。僕の思う、かっこいいパパはこんなもんじゃない。

「今、私はこんなことにチャレンジしてるんだよ!パパは?」

「パパはこんなチャレンジをしているよ!一緒に頑張ろう!」

将来、親子でこんな会話が出来るといいな。

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最後に

30年間の人生を初めて振り返った。文字数としては2万字を優に超えた。

その中で気づいたことは【人との出会い】を通して僕の人生は大きく変わってきた。
出会ってきた人、周りの人に支えられて生きていることを実感した。
何者でもない僕が、こうして熱くなれるものを見つけることが出来ているのも、いろんな人のおかげだと気付けた。

その時は気付かなかったが、Mさん、妻、娘、フィットネスジムの取締役の二人、メンバーのみんな、コーチ、本当にたくさんの人と出会い、その人たちの存在、言葉によって、人生を大きく変えてくれた。これからもきっとそうだろう。
僕の人生のターニングポイントには必ず、その時に必要な言葉を掛けてくれる人たちがいる。

時には、温かい眼差しで。
時には、厳しい言葉で。
時には、真っ直ぐに心に響く言葉で。
時には、その存在で。

僕はこれまでの人生でも、尊い経験をさせてもらった。

僕自身がもがき、「変わりたいけど変われない」「変わることなんてできない」そんな苦しみを乗り越えてきた。
いや、きっとこれからもそんな苦しみには何回も襲われる。

でも、その苦しみを感じることができるのも自分のいいところだと感じる。

  • 【周りの目を気にしてきた】からこそ
    【場の雰囲気を感じることが出来る】

  • 【人よりも自信がない】からこそ
    【愚直に努力をし続けることが出来る】

  • 【何も成し遂げて来なかった】からこそ
    【筋トレを地道に続けてきた】

  • 【本当の自分から目を背けてきた】からこそ
    【同じような苦しみの人に本気で向き合える】

こんな自分が嫌いだ、と思い続けてきたことは、自分がつくりだした解釈だった。
他人軸で生きてきた自分を作り出したのは自分。そう気付けた。
ずっと嫌いだった自分と向き合い、受け入れることで、自分を好きになってきた。

そんな僕自身は、誰かの人生のターニングポイントとなり、人生を変えるきっかけとなる。

僕と出会ったその時は、気づかないかもしれない。感謝をされないかもしれない。優しい言葉ではなく厳しい言葉を掛けるかもしれない。
でも、僕との出会いで、その人の人生が変わるきっかけとなり、数年後に自分の人生を振り返った時に【あいつと出会えて良かった】そんな人としてこれから生き続ける。

「言葉を発さずとも出会った瞬間から人生を変えるきっかけとなる」

この実現のために、僕はもっともっと大きな肉体を手に入れます。ハードにトレーニングし続けます。
現状に満足することなく、僕自身が、本当に望む未来を目指し続ける、その姿は僕と出会った人に、勇気を与え、挑戦を生むきっかけにもなれる。
僕自身がつくりあげてきた身体は、僕自身のエネルギーの源でもあり、出会った人に大きなエネルギーとインパクトを与える。
日本一のボディビルダーがコーチングをすることで生まれるインパクトは目の前の人を変えることが出来る。

僕は自分の事を嫌い、自信がない、そんな自分をずっと変えたいと思って生きてきた。
そして、何年も変えることが出来なかった。そんな僕だからこそ同じ悩みを抱えている人の気持ちがわかる。

そんな人間だからこそ、一人ひとりに本気で真摯に向き合い、その人が望む人生を心から応援できるコーチであり続ける。

ここまで僕の人生を共に歩んできていただきありがとうございます。

これからも、僕の心と身体の成長は止まりません。
日本一のボディビルダーとなり、圧倒的な見た目とインパクト、ハードなトレーニングを通して現実をつくり続けて、自分自身を鍛え抜きます。
そして、自分自身がたくさんのことに挑戦することで、僕自身も大きく変わり続けます。
そんな僕が人生のターニングポイントとなり、多くの人の人生を変えるきっかけをつくります。

「人は変われる」

この言葉を僕自身が体現し続けます。

あとがき

今、なにかに不安を抱えている、変わりたいけど変われない、一歩が踏み出せない。
ここまで読んでくれたあなたなら、知っている通り、僕もその気持ちがわかります。

そんな僕でも変われた。「絶対に人は変われる!」

「変わる」には「挑戦」必要。
「挑戦」には「エネルギー」が必要。

そのエネルギーには「心」と「身体」2つの要素がある。
あなた自身はどんなことでエネルギーを満たしますか?

ボディビルダーの僕だからこそ、肉体、筋トレに向う姿勢、言葉、挑戦し続ける姿から溢れ出るエネルギーを通して「変わりたい」を実現させる!目の前の人の現実を動かす!そう心に決めています。

僕の言葉、生き様に少しでもエネルギーを感じてくれたなら、僕をコーチとして、これからを一緒に歩んでみませんか?
あなたの人生は、必ず変わります!

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