はじめまして、久保田甲斐と申します。

1991年生まれ、滋賀県出身の29歳です。

大阪大学大学院を卒業後、関西電力株式会社に入社。1年9ヶ月務めた後退社し、2020年12月現在は神戸でパーソナルトレーナーをしております。

カイマッスル.comというブログをやっており、そちらで知って頂いている方もいるかも知れません。

僕はこの1年ほど、人生の目標を見失っていました。

心が消耗し、アツい気持ちを失い、くすぶっていました。

そんな僕の心に、友人でありコーチでもある長畑遼が再び火を灯してくれました。

僕は彼に救われたし、今度は僕が誰かに火を灯す側に回りたいと思っています。

このnoteには、僕の人生の全てを記しました。

僕という人間がどんな人生を歩んできて、なぜ熱量を失い、どうやって再び心に火が灯ることになったのか、全てを書きました。

小学生時代からの振り返りになるので長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。

①小学校時代:小さい頃から常に何かに熱中していた

僕は昔から何かに熱中している時間が好きだ。

その気質は小学校のときから既に持っていた。

人生で一番最初に夢中になったのは、昆虫の採集と飼育だった。

暇さえあればいつでも虫かごを持って近くの堤防の草むらで昆虫採集をしていた記憶がある。

当時からオタク気質というか、好きになったものは自然と調べたりしてしまうタイプで、小学校二年生の頃の愛読書は『クワガタムシ飼育のスーパーテクニック』だった。

おっさんのクワガタマニアしか読まないであろう超マニアックな本で、その本の知識を元に、クワガタの飼育と繁殖にチャレンジしていた。

ネット通販で仕入れた産卵木に産卵させて、菌糸瓶という栄養たっぷりの餌の入った瓶の中で幼虫を育て、羽化させ、また卵を産ませる。

小学2年生にしてブリーダーの真似事のようなことをしていた。

お年玉やおばあちゃんからもらったお金はほとんどクワガタに注ぎ込んでいて、オオクワガタ、ニジイロクワガタ、パラワンオオヒラタなど色々なクワガタを飼育していた。

小学校3年生の時の文集の将来の夢の欄には『クワガタ・カブト専門店を作りたい』と書いているぐらい、クワガタ飼育に熱中していた。

小学校四年生の頃、友人に誘われて少年野球チームに入団した。

元々運動神経は悪くなかったのと肩が強かったこともあり、小6の時にはチームのエースになっていた。

この時は野球に夢中になっていて、家では野球関連の本を読み漁ったり、土日のチーム練習以外にも放課後友達とグラウンドで練習したり、誰も捕まらないときは暗くなるまで延々と壁当てをしたりしていた。

ひとたび夢中になるととことん没頭してしまうタイプの子供だった。

②中学校時代:進学塾でエリート思想に染まる

中学校時代は今思い返しても最高に楽しかったと胸を張れる。

野球部でもレギュラーになれていたし、友人にも恵まれ本当に楽しくやっていた。

初めて彼女が出来たのもこの頃だ。

この時期で人生の転機となった出来事と言えば、地元一の進学塾に入塾したことだ。

小学校の頃からの親友2人がその塾に入るというので、『仲間外れになりたくない』という一心で僕も親に頼んで入塾させてもらったのだった。

悪い友達とも仲良くするタイプだったので、この塾に入っていなかったらそっちに流されて恐らく大学受験すらしていなかったと思う。

その塾は塾長とその奥さん(通称・夫人)が2人でやっている個人塾だったが、とにかく厳しくてエリート思想の強い塾だった。

『勉強していい大学に入って一流企業に行け』

『負け組にだけはなるな』

『他人から必要とされる人間になれ』

といつも言われていた。

そんな環境で過ごすうちに僕も徐々にエリート思想に染まっていき、『いい大学へ行って一流企業へ就職する』というのが正しい人生のルートだと思うようになっていった。

元々成績は中の上ぐらいだったが、野球部を引退してからは勉強時間が増えてグングン成績が伸びていき、最終的には地元で一番の進学校に合格することが出来た。

今でも塾長夫妻には感謝しているが、このエリート思想は良くも悪くも自分の中に長く残り続けることとなった。

③高校生時代:ラグビーとの出会い、怪我との闘い

高校入学当初は、塾長の言いつけを守り帰宅部で勉強をバリバリ頑張るつもりでいた。

だが、入学初日のオリエンテーションで高校の先生が文武両道を激しくゴリ押ししていたため、とりあえず見学ぐらいは回ってみることにした。

野球は好きだったが、貴重な青春の三年間を坊主で過ごすことには抵抗を感じていたため、野球部という選択肢はなかった。

野球以外に特に好きなスポーツもなかったが、唯一興味を引かれたのが部活紹介のオリエンテーションで先輩たちがふざけ倒していたラグビー部だった。

確か、いじめられっ子がラグビー部に入部して強くなっていくというストーリーの劇をやっていたと記憶しているが、とにかくラグビー部だけ何かがおかしかった。

「なんやこの人ら面白そうやなぁ。一回ラグビー部見学行ってみるかぁ。」

とりあえず見学行ってみると、タッチフット(タックルの代わりにタッチするだけの遊びのラグビー)をやらせてもらえた。

それが思いの外面白く、先輩達も面白い人たちばかりだったので好印象を持った。

次に体験に行った時は、タックル棒にタックルをさせてもらった。

当時163cm/51kgしかないチビガリだったが、身体を思い切りぶつけるのが無性に気持ち良く感じ、
『このスポーツは自分に合ってるかも知れない』
と思った。

周りから見るとただのチビガリでしかなかったと思うが、自分の性格とマッチするような感覚があった。

何か新しい事を始めるのにもワクワクしたので、思い切ってラグビー部に入部することにした。

小柄で不器用だがタックルが好きな僕をみて、先輩はフランカーというポジションを勧めてくれた。

チームで1番カラダを張ることを求められるポジションだ。

入部してからもフィジカルは貧弱なままだったが、一年生の夏合宿でメンタルが覚醒し、ビビらずにタックルに行きまくれるようになっていた。

試合中はZONEに入っているような感覚で、何も恐れずにデカい相手にも何度もタックルに行けた。

「行ける!まだ行ける!まだ行ける!」

この時の僕はタックルに対して微塵も恐怖を感じていなかった。

試合後、三年生で一番激しいタックルをする先輩が
「カイ、お前はアツい奴や。お前は今日から俺の弟子や。」
と言ってくれた。

チームの皆も自分をアツいタックラーとして認めてくれた。

それがとにかく嬉しくて、それからは恐れず激しいタックルに行くことが自分のアイデンティティとなっていった。

小柄で足も速くない自分が周りに認めてもらうための、唯一のよりどころだった。

しかし一年生の終わり頃、ある試合で100kg超えの巨大な選手にタックルに行ったとき、突如首元に激痛が走り、右腕が痺れて動かなくなった。

しばらくすると痺れは引いたが、それ以来右肩でタックルするたびに激痛とともに腕が痺れるようになった。

次第に腕に力が入らなくなっていき、しまいにはシャンプーもうまく出来なくなった。

病院へ行ったところ、バーナー症候群という怪我らしく、タックルの際に首の神経を挟んでしまうことが原因らしかった。

医者からはとりあえず症状が治るまで待って、後は首回りを鍛えて強くするしかないと言われた。

「大丈夫、まだ左肩がある。左肩のタックルを極めよう。」

そう前向きに考え、しばらくは逆肩でタックルに行くことで誤魔化していたが、そのうち両肩ともバーナー症候群になってしまった。

思い切りの良いタックルだけが売りの選手だったのに、思い切りの良さもなくなり、何も自分の良いところがなくなってしまった。

唯一のアイデンティティを失ったのだ。

自分らしさを失うことがこんなにも辛いことなのだと、このときはじめて知った。

それからというもの、痛むのが怖くてタックルに行けない僕は監督から怒られまくった。

タックルに行って痛むのも怖い、でも監督に怒られるのも怖い。

結局中途半端なプレーをしてまた怒られて、本当に地獄のような日々だった。

『自分はこんなに辛い想いをしながら、何でラグビーをやっているんだろう』

もう辞めようかと考えたこともあったが、同期達と励まし合うことでなんとか辛さに耐えていた。

辛かったが、チームの仲間のことが好きだったから頑張れた。

そんな中でも、とりあえず首を守るため体を鍛えて大きくする努力は継続していた。

とにかく強くデカくなりたい一心で、お腹の空く時間のないぐらい頻繁に間食を取り、夜食をパンパンまでお腹に詰め込んだ後に、更にウィダーを流し込んで限界ギリギリまでカロリーを追加する毎日を過ごしていた。

夜寝る前に体重を計って、前日より体重が増えるまで何か胃袋に詰め込んでから寝るという基地外じみたマイルールも作っていた。

さらに朝練でもトレーニングルームに行って、出来るだけ多く筋トレ行った。

そんな努力の甲斐あり、入部当初は51kgしかなかった体重が、3年生時には25kg増えて76kgになっていた。

身体がデカくなるにつれて次第にバーナーの発生頻度も減っていき、次第に思い切ったプレーも出来る様になっていった。

徐々に自信を取り戻していった。

残念ながら目標としていた花園出場は叶わなかったが、努力して身体を鍛えたことで怪我を克服できたことは大きな自信になった。

④浪人時代:自分なりの戦略で合格を掴み取る

ラグビーを3年秋まで続けた時点で覚悟していたことだったが、当然のように大学受験は失敗した。

一応大阪大学工学部を受験したが、学力が足りなすぎて記念受験のようなものだった。

浪人が決まってからは、親に頼み込んで駿台京都校に通わせてもらい、京都大学を目指して勉強を始めた。

毎日朝から晩まで予備校にいた。

ほとんど遊びにいった記憶もなく、この1年は本当にほぼ全ての時間勉強していた。

夏前まで勉強していて、僕はあることに気付いた。

『このまま普通に勉強を続けても、二次試験の数学で合格点を取るのは多分無理や・・・』

京大や阪大の二次試験の数学は、僕のような数学が苦手な人間にとっては難易度が高く、完答して大きく点数を稼ぐことは難しかった。

さらに数学は試験範囲が膨大で、全範囲を網羅するには相当な時間を割かなければならない。

全範囲を網羅出来なかった場合、本番で網羅出来ていない範囲の問題が出題されたら終わりだ。

ギャンブルはしたくない。

一方で、得意の物理に関してはこれから詰めて勉強すれば試験範囲は完璧に網羅出来るし、二次試験でも満点を狙えるレベルまで持っていけると思っていた。

化学もこれから頑張れば間に合うし、合格点+αぐらいは狙えるだろう。

物理化学で点数がしっかり稼げれば、数学は部分点狙いでも合格点には十分届く。

その考えに至って以降、数学を捨てて、確実に点数を稼げる物理化学に時間割いた。

また、自分の計画通り勉強を進めるために、自分が必要だと思った授業以外は受けず、極力自習に時間を割いた。

正攻法ではないやり方だったが、自分なりに勝算はあった。

11月頃の京大模試、阪大模試共にD判定だったが、不思議と不安はなかった。

『自分の計画通りに行けば受験にはギリギリ間に合うはず』

そのまま作戦を継続して受験に臨んだ。

センター試験を受けた時点で、自信を持って京大に突っ込むには少し点が足りなかったので、結局阪大の工学部を受験した。

予定通り物理は完答してほぼ満点、化学もそこそこの点を取り、数学は部分を点をしっかり稼ぎ、無事合格することができた。

自分は地頭は良くないけど、自分なりの戦略を立てることで周りと勝負できるのだと自信が付いた。

ストレングスファインダーで自分の1番上位の資質は『戦略性』となっているが、まさしく自分の戦略性に自信を持てた出来事だった。

⑤大学時代その1:アツくなれるものを求めて再びラグビー部へ

しっかり浮ついた気持ちで大学へ入学した僕は、当初は華のキャンパスライフを夢見ており、楽しそうなサークルの新歓は一通り回った。

テニサー、ラクロス、アルティメット、舞踏研究会、夏祭り実行委員会・・・etc

ただ、どこへ行ってもどこか物足りなさを感じてしまう自分がいた。

ワイワイみんなで楽しくお酒を飲んだりするだけじゃ何かが足りなかった。

そこは自分の居場所ではない気がした。

アツくなれるもの、そして一緒にアツくなれる仲間が欲しいと思った。

ラグビー部は週5日以上活動があることがネックだったが、高校の先輩が先に入部していたこともあり、一度練習に参加してみることにした。

浪人以来の久々のラグビーで身体は動かなかったが、やっぱりカラダをぶつけるのは気持ち良かった。

先輩達も面白くて、でもラグビーは真剣にやっていて、めちゃくちゃ魅力的に感じた。

ここなら仲間と一緒にアツくなれそうだと思い、結局僕はラグビー部への入部を決めた。

僕のいた大阪大学のラグビー部は少し変わっていて、監督はいるが基本的には練習メニューなどに口出しはせず、完全に学生主体でチーム運営が行われていた。

高校時代は監督に怒られるのが怖くてビクビクしながらプレーをしたものだったが、大学では自由にノビノビとプレーすることが出来て、初めてラグビーが楽しいものに思えた。

同期とも仲が良かったが、特に一つ上の先輩には『ゴリラ』の愛称でめちゃくちゃ可愛いがってもらい、部活後もプライベートもいつも一緒に過ごした。

練習終わりにご飯に行ったり、遠征の帰りにラーメンを食べに行ったり、飲みに行ったり、麻雀をしたり、旅行に行ったり・・・

僕にとって人生で心から楽しいと思えた時間の一つだ。

僕もその先輩達のことが本当に大好きで、自分が3回生でレギュラーとして試合に出るようになってからは、
『この先輩達を勝たせたい!』
という一心で練習も試合も頑張っていた。

大阪大学ラグビー部は日本一を目指すチームではなかったし、土日を返上してまで週5日以上活動するのは正直しんどいと思うこともあった。

それでもなぜ苦しい練習に耐えて頑張れたかと言えば、結局は『仲間と一緒だから』に他ならなかった。

その中には『仲間から自分の活躍を認められたい』という承認欲求ももちろん含まれているが、やはり仲間と一緒に頑張ることで力が出るタイプなのだと思う。

大学ラグビー部時代は最高に楽しかった時期であるのと同時に、初めてスポーツにおいて怪我以外の挫折を味わった時期でもあった。

今までどのスポーツも頑張って愚直に練習していればレギュラーとして試合に出ることが出来ていたが、大学では入部した瞬間からそれが無理であることを悟ってしまった。

同期のフランカーが明らかに自分よりカラダがデカくて足も速く、さらに器用なプレーが出来たのだ。

同じポジションをやっている限り、この選手には勝てないと本能で感じた。

そして更に追い打ちをかける出来事が起こる。

僕が二回生になっときに一回生に優秀なフランカーが入部してきたのだ。

『フランカーというポジションは好きだが、このままでは4年間控えとして過ごすことになってしまう・・・』

『大学4年間を控えで終わりたくない。体重を増やしてフロントローに転向しよう!』

どうしても控え選手のまま終わるのは嫌だった僕は、悩んだ末に覚悟を決めて慣れ親しんだフランカーのポジションを捨て、フロントロー(スクラムの1番前列)に転向することにした。

フロントローには一つ上の代と自分の代にライバルになりそうな選手がいなかったため、体重さえ増やせれば自分が三回生になる頃にはレギュラーの座を狙えるはずという目算だった。

4年間足の速さやテクニックを磨いてフランカーとしての総合力で勝負するより、とにかく身体を鍛えて体重を増やせば勝負出来るフロントローの方がレギュラーになれる確率が高いと判断した。

この方向性で努力すれば絶対にレギュラーになれると、謎の確信を持っていた。

ポジション転向を決めてからはとにかく筋トレと食トレを頑張り、バルクアップに全精力を注いだ。

チームの全体練習では筋トレが週に1~2回しかなかったので、最低週3回は筋トレできるように自主的にトレーニングルームに通った。

高校時代はトレーナーの作ったメニューをこなすだけだったが、大学からはトレーニングのやり方についても自ら学ぶようになり、筋トレ系のサイトや本を読んでは色々試していた。

また、高校時代の成功体験を元に食トレも頑張り、晩御飯は米3合をベースにして間食も出来る限り食べるようにした。

ご飯お代わり自由の宮本むなしに通ったり、先輩の家にご飯をたかりにいっていたのもいい思い出だ。

3年生になる頃には84kgまで体重は増え、BIG3の合計重量は約500kgまで伸びてチームNo. 1となることが出来た。

そんな努力の甲斐あり、三回生からは無事フロントローでレギュラーの座を獲得することが出来た。

筋トレにより未来を変えることが出来たという、自分にとっては強烈な成功体験だった。

僕は筋トレが好きになり、ますます筋トレにのめり込んでいった。

もはやラグビーより筋トレの方が好きだったかも知れない。

試合に出れるようになって何より嬉しかったのは、大好きな先輩達と一緒にプレーできるようになったことだった。

試合で頑張ると褒めてもらえるし、それが練習やトレーニングを頑張るモチベーションになった。

自分は褒められるとドンドンやる気になって頑張れるタイプだった。

大学ラグビー生活最後の年となる四回生のリーグ戦では、フロントローには珍しく8試合で5トライを決めることが出来た。

足の速さも器用さもテクニックもない自分がここまでトライを取ることが出来たのは、紛れもなく鍛え上げた肉体のお陰だった。

あまり周りに自慢することはないが、自分の中では大きな自信になっている経験だ。

あの時フランカーという慣れ親しんだポジションに固執せず、フロントローへ転向を決めて本当に良かったと思っている。

その選択が筋トレを頑張るという行動を生み、そして筋トレが好きになって今のトレーナーという仕事に繋がっているのだから人生というのは面白い。

⑥大学時代その2:筋トレブログを始める

大学三回生の頃、学部の友人からサイト作りをしないかと誘われた。

彼はアフィリエイトで月10万円ほど稼いでいて、せっかく筋トレの知識があるならと声をかけてくれたのだった。

とりあえず何でもやってみるタイプの僕は、その友人に教わりながら、筋トレ知識を紹介するサイトとブログを立ち上げた。

今現在続けているブログ『カイマッスル.com』も、その時立ち上げたものの延長だ。

今でこそGoogle検索でもそれなりにまともな情報がヒットするようになったが、当時ヒットする筋トレサイトは薄っぺらい内容のものがほとんどだった。

ラグビー部時代からすっかり筋トレオタクとなっていた僕は、世の中に広まっている筋トレ知識が間違いだらけであることに憤りを感じており、
『自分が正しい情報を世の中に発信してやる!』
と息巻いていた。

今にして思えば大した知識もなかったくせに何故あそこまで自信を持てたのか分からないが、
『自分がやらなきゃ誰がやるんだ』
という気持ちで不思議なくらいモチベーション高く記事の更新を続けた。

続けていくうちに何だかんだ収益も付いてくるようになり、学生の間に月3万円程度は稼げるようになった。

しばらく更新しなかったり、Googleの検索順位の変動次第で収益は減るものの、不労所得に近い収入を得られるようになって価値観が少し変わった。

後に社会人になってからは、この稼ぎを増やして独立することを夢見るようになった。

⑦大学時代その3:父の死が人生観を変える

大学三回生のとき、父が死んだ。大腸癌だった。

父は精神科医で、僕が小さい頃の口癖は「やりたいことは働いてからでも出来るから、とりあえず勉強して医者になったらどうだ」だった。

事実、父は多趣味で、マジック・空手・水泳・エレクトーンなど社会人になってから始めた様々な趣味を持っていた。

中でもマジックにはドはまりしており、『ジョニー久保田』の芸名でセミプロとして活動して、お金をもらうまでになっていた。

そんな父が、僕が浪人生のときに大腸癌になった。

見つかった時には既にステージⅢまで進行していて、余命半年と宣告された。

余命宣告されてからしばらくは酷く落ち込んでおり、本当に辛そうだったのを覚えている。

だがある日の晩、父は唐突に家族に宣言した。

「俺は今日から、ジョニー久保田として生きる。あとは自分の専門である認知行動療法の発展と、自分の好きな人のためだけに時間を使う。」

その時は何言ってるんだと思ったが、翌日から本当に父は『ジョニー久保田』になった。

どこへ出かけるにもミスターマリックばりの黒づくめの衣装にハットを被って出かけるようになったし、マジックショーの出演も以前にも増して精力的に行うようになった。

認知行動療法の勉強会にもよく行っており、その先ではマジックを織り交ぜた面白いプレゼンを披露しては毎度好評だったらしい。

そんな父が僕には輝いて見えたし、今まで見たことがないぐらい充実しているように見えた。

そしてなんと驚くべきことに、余命半年と言われた父はそれから3年も生きた。

僕は今でも、『好きなことをやって生きたから』だと思っている。

最後に父と会った日、父は自分の死期を悟っていたらしく、今まで聞いたことのない昔話を沢山してくれた。

昔は大阪の天下茶屋のボロ屋で育ったこと、学生の頃は喧嘩ばかりしていたこと、もし医者になれていなかったらきっとヤクザになるしかなかったこと・・・

色んな話を一通りしてくれたあと、最後に父は言った。

「カイ、俺はな、もう人生に後悔はないんだよ。ただ、もうこれ以上自分の好きな人達と一緒にいれないことだけが寂しいなぁ。」

自分が死ぬときに、果たして同じセリフが言えるだろうか。

こんなにも素晴らしい死に方があるだろうか。

『自分だっていつ死ぬか分からない。絶対にやりたいことをやって死のう。』

そう胸に誓った瞬間だった。

それ以来、人生において重大な決断を迫られたとき、いつも父の最後の顔が頭に浮かぶ。

あの満足しきった笑顔で優しく僕に語りかける父の姿こそが、理想の死に様だった。

『その選択の先に満足いく死があるか』

それが決断の基準になった。

僕の理想の死に方はあの時決まったのだった。

⑧大学院時代その1:誓いに反して堕落した生活を送る

後悔しない日々を過ごすと誓ったはずだったが、大学院時代はとにかく堕落した生活を過ごした。

大学院へ進学したのも、ただ学生生活というモラトリアムを延長したいというだけの理由だった。

研究室にはほとんど行かず、筋トレして、パチスロして、麻雀して、酒を飲んで、合コンして、たまにブログを書いて・・・

これぞまさしく自分の望んだモラトリアムであり、ある意味最高の日々だったとは思うが、心のどこかに常に引っかかりのようなものは感じていた。

焦燥感と言えば良いのだろうか。

筋トレとブログ更新だけはそれなりに頑張ってはいたが、本当の全力で取り組めてはいなかった。

結局大学院の2年間は何も本気でやり切ることができず、不完全燃焼のまま終わってしまった。

自分という人間は、甘えられる環境にいるととことん甘えてしまうタイプだということを改めて自覚した。

⑨大学院時代その2:就活、インフラ大手2社から内定をもらう

工学部の大学院まで行ったので、周りの同期はほとんど推薦で就職を決めていた。

メーカーで働くのは何となく嫌だったので、インフラ系の大手企業を一般で受けて2つの企業から内定をもらった。

このときの企業選びの基準は、
『周りから馬鹿にされない大手企業で、出来る限り待遇の良いところ』
というだけであった。

やりたいことも浮かばなかったので、とにかく条件だけで選んでいた。

一応『誰かの役に立ちたい』という想いだけは持っていたので、分かりやすく人の役に立てそうなインフラ系の企業を中心に受けていたのだった。

推薦ではなく一般で内定を貰えたとことで、自分が承認された気がして小さな満足感を覚えた。

給与面や転勤の範囲、周りからの評価などを諸々考えて、最終的に関西電力を選んだ。

一生そこで働く自分は全くイメージできなかったが、今まで思い描いてきた人生のレールから外れるのが怖くて、とりあえず絶対に失敗しない道を歩もうとしていた。

『このままの進路で本当にいいんだろうか?』

正直胸に引っかかるものはあったが、

『一回働いてみないことには分からない』
『働いてみたら案外楽しいかも知れない』

そんな風に自分に言い聞かせて、あまり深く考えないようにしていた。

⑩社会人その1:メンズフィジークとパワーリフティングに挑戦する

大学院の2年間を不完全燃焼のまま過ごした僕は、
『社会人になったら何か新しいことにチャレンジしたい』
と思っていた。

筋トレ系の競技には前々から興味があったので、とりあえずメンズフィジークパワーリフティングの大会に出場してみることにした。

正直この時点ではどちらの方が自分に合っているのかも分からなかったし、両方出てみてから色々判断しようと思っていた。

まずは9月末のNPCJ WESTJAPAN CHMPIONSHIPのメンズフィジーク部門に照準を定め、6月頃から減量を開始した。

初めての本格的な減量で初めは手探り状態だったが、進めていくにつれて徐々にやり方が掴めてきて、次第に減量が楽しくなってきた。

もちろん空腹で辛いときや、食べ過ぎて落ち込んでしまうときもあったが、SNSで応援の言葉を貰えるのが嬉しくて前向きに続けることが出来た。

そして何とかそれなりに絞って本番のステージを迎えたものの、結果は予選敗退。

初めて立ったステージは楽しかったが、その時は結果が出なかった恥ずかしさと不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。

正直言って、全力を出し切って減量出来たとは言えなかった。

初出場だということに甘えて、甘い絞りのまま大会に出てしまった。

後からドンドン情けなさと悔しさがこみ上げてきて、死ぬほど後悔した。

『もう二度とやり切らなかった後悔はしたくない』

勇気を出してその時の想いをそのままブログ記事にしたところ、思いのほか大きな反響があった。

てっきり馬鹿にされたり笑われたりするものだと思っていたが、誰一人そんな人はおらず、皆暖かい言葉を掛けてくれた。

挑戦する人を笑う人なんて自分の周りには一人もいなかった。

それが凄く嬉しくて、それからというものブログやTwitterで自分の挑戦を発信していくのが楽しくなっていった。

その次の年、昨年度の後悔を糧に全力で減量をやり抜き、同大会のノービス部門で5位入賞することが出来た。

25人中5位という結果は、周りからしたら決して大した結果ではなかったかも知れない。

だが苦しい減量を遂にやり抜き、去年は得られなかった成果を得られたことに僕自身はとても満足していた。

そして何より、ブログやTwitterに減量の過程を投稿していたことで、この結果を多くの人が祝福してくれた。

『自分の挑戦をこんなにも多くの人が応援してくれていた』

その事実に驚くとともに、心の底から喜びがこみあげてくるのを感じた。

『こんな風に自分の生き様を発信して、それが人の心を動かして、それが最終的に仕事になったら最高だろうな・・・』

そんな気持ちが芽生えるきっかけになった経験だった。

同年12月にはパワーリフティングの大会にも初めて出場した。

結果は74kg級で

スクワット 170kg
ベンチプレス 120kg
デッドリフト 190kg
Total 480kg

目標の500kgには届かなかったが、何とか全国大会への切符は手に入れることが出来た。

試技の前の緊張感と、成功できた時の気持ち良さが病みつきになった。

次に出たのは2ヶ月後の全国大会だ。

ほぼ毎日練習を頑張ったのと、フィジークの減量で弱っていた身体がだいぶ回復したこともあり、順調に記録を伸ばすことができた。

スクワット 190kg(+20kg)
ベンチプレス 127.5kg(+7.5kg)
デッドリフト 220kg(+30kg)
Total 537.5kg(+57.5kg)

また、それから何度か大会に出るうちにパワー界の知り合いも増えていき、合同練習に行ったりする機会も増えていった。

そうした繋がりが出来ていくことも嬉しく、パワーリフティングの世界にどんどんのめり込んでいった。

毎日練習してフォームについてあれこれ考えたり、記録を伸ばすために先のメニューを組み立てたりするのも楽しかった。

特にフォームの研究は楽しく、色々試行錯誤した末に『バシッ』とハマる感覚がきてそれが実際に記録の伸びに繋がった時などはもうめちゃくちゃ気持ち良かった。

久しぶりに何かに夢中になれた。

パワーリフティングという競技に熱中した。

努力の結果が数字として表れるのも分かりやすくて性に合っていた。

強くなるために強豪選手のセミナーやパーソナルを受けに行ったし、大阪のベンチプレスジム(8sukigym)に入会もした。

日々の生活が気付けばパワーリフティング中心になっていた。

四六時中パワーリフティングのことを考えて過ごすうちに、

『自分が熱中しているこの素晴らしい競技をもっと周りに広めたいし、強くなっていく過程を周りに発信していきたい』

そう強く思うようになっていった。

⑪社会人その2:ナンパとの出会い

この話は正直noteに書くか迷ったが、僕という人間を語る上で避けては通れない部分だと判断し書くことにした。

僕の中には昔から『モテたい』という強い欲求がある。

別に今までの人生で彼女が出来なかった訳でもないし、人並みに女性経験もしてきたとは思うが、決してモテていた訳ではなかった。

小学校の頃は誰からもバレンタインチョコを貰えなかったし、中学以降は自分から告白しまくるようになって女性の方から告白されたことはないし、とにかく『モテたい』という気持ちが満たされていなかった。

自己評価に反してモテていないという事実は、ずっと自分の中でコンプレックスだった。

何とかしたいと常に思っていたが、どうしたら良いか分からないでいた。

ある時期、どういうきっかけだったか忘れたが、ネットサーフィンをしているとたまたまとあるナンパブログに辿り着いた。

『新宿でナンパしながら起業する』

今では伝説となっているasapenさんという方のブログだった。

今までナンパといえばチャラい男が「姉ちゃん飲みに行こうや」みたいな声かけをする恥ずかしい行為というイメージだったが、asapenさんの戦略的かつ真摯にナンパに取り組む姿勢を見てイメージが180度変わった。

戦略に沿って行動し、トライ&エラーを繰り返しながら成長していくasapenさんの姿に尊敬の念を覚えた。

それからというもの、人気のナンパブログを片っ端から読み漁って技術を吸収し、週刊金融日記を購読して恋愛工学も学び、学んだ知識を試すべくナンパに繰り出すようになった。

初めは緊張し過ぎて声を掛けることすらできないでいた。

『あの人は歩くのが速すぎるからきっと用事があるんだろうな』

『あの人は美人過ぎるからきっと相手にされないだろう』

声を掛けない言い訳は無限に湧いてきた。

なんだかビビッてタックルに行けなかったときのような情けない感覚になり、意を決して声を掛けてみた。

「こ、こんにちは・・・」

覇気のない声でただ挨拶しただけのこの声掛けは当然無視されたが、それでも初めて声を掛けることができた。

アドレナリンが湧いてくるのを感じた。

それからしばらく、何度も無視されたり断られたりしながらも、愚直に声掛けを続けた。

その日は結局10人以上声を掛けただろうか。

そのうち1人の女性と会話をすることに成功した。

話は盛り上がり、また今度ご飯に行こうということでLINEを交換することが出来た。

『やった!!!』

完全なるビギナーズラックではあったが、ナンパで初めて連絡先を交換できた瞬間だった。
(ちなみにこのLINEはすぐにブロックされ、既読が付くことはなかった笑)

この時僕は、自分の世界が一気に広がった気がした。

勇気を出したことで、本来無かったはずの出会いを自分の手で生み出したのだ。

『出会いがない』なんて言い訳をするのは一生辞めようと思った。

ナンパについてはテクニック面も色々勉強したが、結局のところ1番大事なのはマインドの部分だと思っている。

特に大事なのが、『勇気』『自信』そして『折れない心』だ。

知らない人に声を掛けるのには勇気がいる。

しかし、例え勇気を出して声を掛けたとしても、自信溢れる魅力的な振る舞いが出来ないと相手の興味を引くことは出来ない。

また、どんなに頑張っても無視されたり、断られ続ける時はあるので、それに耐えうる強靭なメンタルが必要になる。

ナンパを通して僕のメンタルは確実に成長し、強くなった。

そして、自分から主体的に行動することで出会いは生み出せるし、人生は変えていけることを学んだ。

今も別にモテているわけではないが、『モテない』ことが嫌で行動を起こし、少しでも成長出来たことは誇らしく感じている。

ちなみにこれは余談になるが、今年の夏、高校の後輩が昔僕と一緒にナンパした女の子と結婚した。

後輩は「カイさんがいてなかったら僕はあの子と出会えてないっす!本当に感謝してます!」と言ってくれて、なんと婚姻届の証人欄へのサインを頼んできた。笑

こんなに嬉しいことがあるだろうか。

自分のナンパへの挑戦をきっかけに後輩が今の奥さんと出会い結婚し、そして心から感謝してくれているのだ。

ちなみに先日、婚姻届のサインをするためにその後輩と直接会って飲みに行ってきたが、2人ともベロベロになるまで酔っ払ったのは言うまでもない。

最高の時間だった。

⑫社会人その3:関西電力を1年9ヶ月で退職

条件を見て選んだ会社だったが、とにかく仕事に興味が湧かなかった。

一日9時間毎日「早く時間過ぎないかなぁ。」と思いながら働いていた。

その時間が何よりも苦痛だった。

この時の自分はとにかく仕事を舐めていて、何度もトイレに席を立ってはスマホを弄っていたし、Excelで作業しているフリをしてトレーニングメニューを練ったり、Wordを開いてブログの下書きを作ったりした。

家に帰ってパワーリフティングの練習をすることと、週末友人と飲みにいくことが生き甲斐だった。

そんな生活から逃げ出したかった僕は、

『もっとブログの収益さえ増えれば、会社を辞めてやりたいことだけやって生きていけるんじゃないか?』

と考え始めた。

それからというもの、時間の許す限りブログを書いて過ごした。

会社で定時まで働き、帰ってパワーリフティングの練習をして、それから夜中の3時ぐらいまで眠い目を擦りながらブログ更新を続ける日々だった。

いかんせん昼間の仕事とパワーリフティングの練習で疲れ切った身体ではブログの更新捗らず、
『もっと記事を書く時間を確保したい』
と思うようになっていった。

そんなある日の晩、学部生時代にアフィリエイトを教えてくれた例の友人に会社を早く辞めたいという相談すると、とあるブログ記事を紹介された。

「起業なんてカンタンだよ。」-これからお金の話をしよう

記事では、『起業したいと言って筆者に相談に来たが実際には起業しなかった若者』のエピソードが二つ紹介されていた。

彼らは起業を志しながらも、成功の確実性を求めるあまり結局起業できなかったのだった。

未来の自分だと思った。

『ブログの収益がもっと伸びてから辞めよう』
『6月のボーナスを貰ってからやめよう』

そんな打算的なことを考えていた自分が急に怖くなった。

この記事の中で、ひと際胸を打つ一言があった。

だから君が、もしも起業しようと計画しているのなら、こういうふうに考えてみよう。
「成功しそうか分からないから、とりあえず始めてみる。」
そう、まずは始めてみる。これだけなのだ。

その通りだと思った。

『成功の確実性なんて求めてたら一生行動できない。とにかく会社を今すぐやめて、ブログに集中してみよう。』

その翌日、上司に退職の意思を伝えた。

会社を辞めて無職になるのは怖かったが、このまま会社に居続けて辞められなくなる未来の方がもっと怖かった。

2ヶ月後の2018年12月31日、1年9ヶ月務めた関西電力を退職した。

⑬無職時代1:毎日ブログ更新に全力投球する最高の日々

年明けから無職になり、凄く自由な気分だった。

最初の一週間ほどはカフェで本を読んでみたり、丸一日ダラダラしてみたり、今後の計画をゆっくり練ったりして過ごしたが、それ以後はブログ執筆に打ち込んだ。

パワーリフティングの練習の時間以外は、ほぼブログ記事を書く生活だった。

このときは『パワーリフティング界を自分のブログで盛り上げてやるんだ』という気持ちで、とにかくガムシャラに記事を書いた。

記事のネタになりそうだと思えば、EVERLIFTデッドリフト大会やKANEKIN FITTNESS GYMデッドリフトチャレンジなど、県外のイベントにも積極的に参加した。

夕方から朝までぶっ通しで記事を書いては力尽きるように眠る日々で、肉体的にはしんどかったが、やりたいことを全力でやり切って過ごす日々はめちゃくちゃ充実していた。

『パワーリフティングをやっている人や、これから始めたいと思っている人のために、役に立つ情報を届けたい』

本気でそう思っていた。

記事を書くとSNSを通じて多くの人から反響があり、それもまた記事を書くモチベーションになった。

『良い記事を書くと皆が褒めてくれるし、喜んでくれる』

それがとにかく嬉しくて、もはや収益さえそっちのけでとにかく人の役に立ちそうな記事をひたすらに書きまくった。

当時特にSNSでの反響が大きかった記事をいくつか掲載しておく。

誰かに言われて何かをやるのではなく、全ての行動が自分の意志だった。

この時の自分の心には、確かに火が灯っていた。

この半年間本気でブログ執筆を頑張れたことは自分の中での自信になっている。

ただ、そんな生活も長くは続かなかった。

失業手当の支給が終了する6月の時点で、目標としていた月20万には遠く及ばなかったため、再び働かなければいけなくなった。

これは仕事を辞める前から決めていたことだったが、いよいよトレーナーとして働かせてもらえるところを探すことにした。

トレーナー未経験ではあったものの、パワーリフティングやメンズフィジークの出場経験があり、見た目もしっかり鍛えているのでどこかしら受かるだろうと考えていたが、大手は3つ受けて3つともダメだった。

今考えるとあまりにも舐めすぎていた。

謙虚じゃない部分が滲み出ていたのかも知れない。

そんな中、最後に残っていた第一志望の三ノ宮の個人経営パーソナルジムだけが僕の経歴に興味を持ってくれて、面接の結果奇跡的に採用してもらえることになった。

ただし、採用が決まった時点ではトレーナーの空きがなかったため、半年間は研修でバイト扱いでも良いなら、という条件付きだった。

それから半年間は週に数回ジムに出勤して研修を受け、生活費はキャバクラのボーイのバイトをして稼ぐ生活を送った。

⑭無職時代その2:長畑遼との出会い

長畑遼という男と出会ったことは、無職時代の最も大きな出来事の一つと言っても過言ではない。

彼は大学の1個下の後輩で、当時彼はアメフト部一の筋トレ野郎、僕はラグビー部一の筋トレ野郎だった。

喋ったことこそなかったが、よく大学のジムで顔を合わせていたのでお互い存在は知っていた。

無職時代の2019年4月、そんな彼と大阪パワーリフティング選手権大会の会場で偶然再会した。

知っている顔だと思い声を掛けると、なんと彼は僕のブログやTwitterでの発信を見てくれているらしかった。

「カイさん、会社辞めたって本当ですか?今楽しいですか?」

「ホンマやで。今はやりたいことだけやって生きれてて、マジで楽しい。」

彼も阪大を出た後大手企業へ就職したものの、仕事が辛く、ちょうど辞めるかどうか迷っていたらしい。

僕は彼に、今自分がブログでの情報発信を本気でやっていること、今が最高に楽しいこと、会社を辞めて良かったと心から思っていることなどを赤裸々に話した。

そしてその翌月、彼は遂に上司に退職を宣言した。

彼曰く、僕との出会いがなかったら会社を辞めていなかったし、Twitterも始めていなかったし、GOAL-Bとも出会っていなかったそうだ。

正直僕は、彼ならどの道自分の力で人生を切り開いていたと思っているが、それでもそんな風に言ってもらえることは心の底から嬉しかった。

自分の挑戦が彼の新しい挑戦を作れたことをとても誇らしく感じた。

それ以後、長畑君とは定期的に連絡を取り合うようになり、たまに食事に行ってはお互いの近況を報告しあう仲になった。

『次会う時までにもっと進化していたい』

お互いにそう思える貴重な相手だった。

⑮パーソナルトレーナーになって心の火が消える、そしてコーチングとの出会い

僕が入社したパーソナルジムは、接客やサービスに対してとても厳しいジムだった。

トレーナーは元より、接客業自体未経験の自分にとっては何もかもが初めてのことで、初めは戸惑うことばかりだった。

お客さんとの距離感、お客さんの動きの導線に入らない動き、言葉遣い、立ち方、タオルを渡すタイミング、電話対応、他のトレーナーとのアイコンタクトでのやりとりなど・・・

どちらかと言うとパーソナルトレーニング自体というよりも、『それに付随するマニュアルのない接客業として大事な部分』がとにかく難しく、入社してからはいつも怒られてばかりだった。

自分は何かに集中して取り組んだり、没頭するということは得意な反面、周りに気を走らせたり細かいところに気付くことが苦手だということを痛感した。

これまでは自分の苦手な部分は無視して、自分の得意な部分だけを伸ばすことで色々な人生の課題をクリアしてきたが、トレーナーを続けて行く以上、この能力だけは絶対に底上げしとかなければならないと感じた。

だからこそ、先輩方に間違っている部分を指摘してもらえることに対しても、成長の機会が貰えたと思って感謝して過ごそうと思った。

先輩方も別に自分を虐めたいと思って怒っている訳ではなく、ジムのため、僕の成長のために言ってくれていることももちろん分かっていた。

今でも先輩方のお陰でトレーナーとしても人間としても成長出来たと思っているし、心から感謝している。

しかし、毎日四六時中怒られていると、頭ではこれを糧にして早く成長するべきなのだと理解はしていても、だんだん心が付いていかなくなってきた。

仕事中は常に胸が苦しく、家に帰ってからも怒られる光景がフラッシュバックしたり、仕事で怒られる夢を見てしまうこともあった。

今だから言えるが、寝てる間におねしょをしたこともあった。

この時の自分は少しおかしくなっていたと思う。

ストレスから飲みに行く頻度が増え、大好きだったパワーリフティングの練習もあまりしなくなっていった。

パワーリフティングの練習をしなくなると、自分の生き様を発信したいとか、いつか自分のジムを持ちたいという想いも薄れていった。

いや、実際にはこれはただの言い訳で、単に自分に甘かっただけなのかも知れない。

もっと頑張って早く成長することも、パワーリフティングの練習時間を確保することも物理的には可能だったはずだ。

それでもやらなかったのは自分だった。

ただ、この時の僕は既に心が折れてしまっており、ただ毎日を消化するだけの機械になっていた。

お客さんのパーソナルをするのは楽しかったし、カラダが変わって喜んでくれるお客さんの姿を見るのは凄く満足感があった。

でもジムに入社してから、心の底から笑えた日はなかったように思う。

常に胸の辺りに何かがつかえている感覚で、いつも胸が苦しかった。

お客さんから「関西電力の時と比べて今の方がやっぱり楽しいですか?」と聞かれて、胸を張って「今が最高に楽しい」とは言えない自分がいた。

そんな自分が嫌で仕方がなかったが、もう自分一人ではどうすることも出来ない域まできていた。

そんな日々が続いていた今年の6月、あまり言わないようにしてきた気持ちを遂に我慢出来ずにTwitterに吐き出した。

だいぶぼかしてはいたが、誰かにこの辛さを理解して欲しいという心の叫びだった。

 

すると高学歴ニート後輩の長畑君からリプライがあり、それをきっかけに長畑君のコーチングを受けさせてもらうことにした。

以前から長畑君がコーチングの勉強を頑張っていたことは知っていたので、友人だが勿論対価を払って受けさせて貰うことにした。

結論から言うと、最高の時間だった。

自分は元々エフィカシー(根拠のない自信)が高めの人間だったが、今は怒られ続ける中でエフィカシーが下がりまくっていることを知った。

そして現状が辛いとは感じているものの、何だかんだそこがコンフォートゾーンになってしまっていることも指摘された。

長畑君に根掘り葉掘り質問されながら答えていく中で、自分はどういう人間で、これから何が本当にしたいのか、少しずつまた見えてくるようになった。

長いこと未来について考える事をやめていたが、たった1時間ほど話していただけで気持ちが凄く上向いて未来のことを考えられるようになっていた。

長畑君と話したことでエフィカシーが上がり、再び人生のモチベーションも高まったので、その勢いでブログを一年ぶりに更新した。

多くの人から反響があり凄く嬉しくて、記事を書いて本当に良かったと思った。

でも本当に辛い心の内は、その時は吐き出すことが出来なかった。

本当は全てを書いてしまいたかったが、もし職場の人やお客さんに見られたらと思うと、書くことが出来なかった。

それから2週間に一回ペースでコーチングを受けていたが、旅行などで忙しい時期を挟んだことをきっかけに(言い訳に)僕からフェイドアウトしてしまい、結局僕のエフィカシーはまた下がってしまった。

また毎日怒られる続ける、以前と変わらない日々に戻っていった。

結局はこれがコンフォートゾーンなのだった。

この時のストレスの捌け口は、6月に彼女と別れたこともあって酒と夜遊びに向いた。

仕事は最低限だけこなしながら、街へ繰り出しては遊んで酒を飲み気持ちを紛らわしていた。

この時には大好きだったパワーリフティングの練習もほとんどしなくなっていた。

刹那的な楽しさはあったが、虚しさは感じていた。

アツくなれるものがなく、自分の気持ちや未来に真剣に向き合ってないからこそ感じる虚しさだった。

全力で日々を生きなくても、それなりに稼いで遊べる職場の環境に甘えてしまっていた。

そんなことは分かっていた。

本当は分かっているのに、どうしてもそこに向き合うことが出来なかった。

そんな自分が本当は嫌だった。

そんな折、長畑くんから電話があった。

「カイさん、GOAL-Bに来ましょう。」

いや、ド直球過ぎるわ。笑

その時はGOAL-Bの魅力がまだ伝わっていなかったのと、今このジムを辞めるのはただ辛いことから逃げているだけのような気がして、一旦断った。

それからも日々職場では怒られ続けながら、長畑君の生き生きとした様をSNSで眺めていた。

正直言って、彼のことが羨ましかった。

『自分は一体何をしているだろう』

『後悔のない人生を生きるんじゃなかったのか?』

『今の環境が本当に正解なのか?』

改めて自問する日々が続いた。

後日、長畑君は再び誘ってくれた。

今度はGOAL-Bという会社の魅力や、メンバーのこと、長畑君が描いているビジョンなども聞かせてもらった。

パーソナルトレーナーという仕事を『ただカラダを変えるだけの仕事』で終わらせず、
『挑戦し続けるトレーナーを見てお客さん自身も新しい挑戦を始めるような、そんな人の心も変える仕事』
にしたいと言っていた。

彼は続けた。

「自分たちの挑戦が人の挑戦を創り、挑戦が溢れる世界を創るんです。最高じゃないですか。」

僕はパーソナルトレーナ―という仕事が好きだ。

自分の持つ知識や経験を生かしてお客さんの身体を変え、お客さんの人生を良くしていく。

努力の結果身体が変わって喜んでくれたり、毎回のトレーニングを楽しみに通って下さるお客さんを見ていると、こちらまで嬉しい気持ちになる。

そしてこれまでの人生を振り返ってみても、僕は挑戦するのが好きだし、それを見て周りが喜んでくれたり、新しい挑戦を始めてくれる瞬間が心から大好きだ。

それを掛け合わせたものが仕事になったとしたら、どんなに素晴らしいだろう。

想像すると凄くワクワクした。そんなの最高に決まっている。

そして彼は続けた。

「僕は本当のカイさんは出来る人って知ってます。
今はくすぶってるだけですよ、僕もそうだったから分かります。
一緒にやりましょう。」

その言葉を聞いた瞬間、心に火が灯るのを感じた。

その時は即答出来なかったが、感情は既に動いてしまっていた。

長畑遼は凄い男だ。

1年間くすぶっていてどうしようもなかった僕の心に、再び火を灯したのだ。

彼の挑戦する姿勢が、その熱量が、確かに僕に伝わった。

『自分が本当にやりたいことはなんだろう?』

『心の底から成し遂げたいこととは?』

電話が終わった後もずっと考え続けていた。

⑯これからの生き方

父の生き様が僕の人生観を変えた。

僕は後悔しないようにと挑戦を繰り返すようになった。

その挑戦が他人の心を動かす度、僕は嬉しくなった。

でもこの一年辛い日々を過ごす中で、僕の心の火は消えてしまいそうになった。

そんなとき、長畑君の言葉が再び僕の心に火を灯してくれた。

まるで以前彼に分け与えた火が、大きくなって返ってきたかのようだった。

情熱とはそんな風に、他人に分け与えていけるものだと思う。

僕は今回長畑君に救われたと思っているし、今度は自分が誰かを救う側に回りたいと思っている。

人生は楽しいことばかりじゃないし、ときには挫けてしまいそうになることもあるし、もやもやとくすぶって過ごす時期だってきっと誰しもあると思う。

そんな時に、久保田甲斐という人間と出会うことで影響を受け、人生を前に進められる人が生まれてくれたらこんなに嬉しいことはない。

今の僕の職業はパーソナルトレーナーで、お客さんのカラダを変えるのが一番の仕事だ。

だが僕はこれまでの経験を通して、カラダだけでなく心も、ひいては人生自体も良い方向に変えることが出来るトレーナーになりたいと思った。

僕にそう思わせてくれたきっかけこそが、長畑君に受けた『コーチング』だった。

トレーニング』でカラダを、『コーチング』で心を進化させる。

この2つが組み合わされば、人生を変えることが出来る。

僕は今そう確信している。

GOAL-Bは「フィットネス」と「コーチング」で人の挑戦を作る会社だ。

今の自分のビジョンとこんなにもマッチする会社は他にないと思った。

今の職場の代表や先輩への感謝、担当しているお客さんへの申し訳なさ、色んな想いが込み上げてきたが覚悟は決まった。

長畑君に連絡を取った。

「GOAL-Bに行きたい」

そう告げた瞬間から、未来が動き始めた。

『人の人生を変えるトレーナーになる』

新しい挑戦がこれから始まる。

【あとがき】

GOAL-Bに行くことが決まり、勢いでこの自分史を書き上げてから早1ヶ月が経過しました。

正直この1年辛いことの方が多かったけど、だからこそ今回の決断が生まれたし、自分にとっては全て必要なことだったんだと今は心から思えます。

この1ヶ月の間にメンタルはだいぶ上向いていて、今は未来が凄く楽しみだと思えるようになりました。

半年後、1年後、数年後の自分が何をしているのか全く想像も付かないことにものすごくワクワクしています。

この先どんなことをしていくのか、具体的なことは何も決まっていません。

ただ、やりたいことはどんどん湧き出てきています。

トレーナーとしてもっと成長したいし、コーチングも学びたいし、パワーリフティングとボディメイクも再開したいし、ブログも再開したいし、YouTubeも始めたい。

なんならもっと有名になりたいし、素敵な女性と出会いたいし、海外にも行きたいし、とにかく全部がしたい!

理想の死に方はもう決まっているから、これからはそのゴールに向けて突っ走っていく。

そんな自分の姿を見て何かに挑戦する勇気を得てくれる人がいたら、何より嬉しく思います。

最後になりますが、この自分史を最後まで読んでくれた方、大変な長文にお付き合い頂き本当にありがとうございました。

これからの僕の挑戦を暖かい目で見守って頂ければ幸いです。

一度きりの人生、全力で頑張ります!!