筋トレで人生を変えた僕が、アメフト選手を経てボディビルで日本一を獲る話 | 福原俊介

はじめまして。

福原俊介と申します。

今回は僕がどのようにして、ボディビルダーマンティ福原になったのかをお話ししていきます。

トレーニングを始める前の僕は、何の特徴もない量産型のただの陰キャでした。

そんな自分が嫌で子供の頃見たマッチョなヒーローみたいに変わりたくて、中学の時に家で腕立て伏せを始めました。
そこから少しずつ今の身体に進化していき、その中で筋肉を通じてさまざまな人との出会いや経験を通して今に至りました。
僕は月並みな言い方をすると僕も筋肉で人生が変わった人間の1人です。

僕はめちゃくちゃめんどくさがりな性格で凄く怠け者です。そんな自分でもトレーニングは継続することができました。

そして今は最高の仲間と名古屋でジムを開いて、そのトレーニングを仕事にしています。
今は筋トレと筋肉に恩返しをすることを使命に働いています。

それでは本編です。

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目次
中川 晃雄
株式会社GOAL-B CEO
株式会社GOAL-Bの創業者。有料職業紹介事業 (許可番号: 13-ユ-314850)月間20万PVの個人ブログを運営し、登録者数12万人のYouTubeチャンネル「AKIOBLOG」を運営。自身が経営する株式会社GOAL-Bで、累計2000人超が受講したキャリアコーチングサービス「キャリスピ」を提供。著書「本気の副業術(西東社)」

誕生〜小学生編

1995/6/17に島根県松江市で教員の両親の長男として生まれる。

小さい頃の夢は古生物学者。家には大量の図鑑があった。
恐竜や虫の好きな博士みたいな感じの少年時代。カブトムシやクワガタを捕まえに行ったり、カナヘビを飼育したり、小さな生き物が友達。この頃の特技はトカゲを素手で捕まえることだった。
今でも虫や恐竜は好きで意外と詳しかったりする。

小学校高学年になると、常にメダカの飼育係をやっている感じの、クラスに一人はいる立派な陰キャに成長。

スポーツは週一のスイミングスクールのみで、体育の授業も憂鬱だった。
そのためクラスの中でも1、2を争う運動音痴。かけっこもいつもクラスの最下位付近で、運動会のリレーとかは大嫌いな少年時代を過ごす。

そんな中、父親が見ていたターミネーターやロッキーで筋肉と出会った。この2つのシリーズは穴が開くほど見まくった。ターミネーターは2が特にお気に入りで、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じるターミネーターがマッチョな体でハーレーを乗り回して、主人公を助けに来るシーンがたまらなくカッコ良かった。そしてこの中でも最も観たのはロッキー4。激しいトレーニングに耐え抜いて手に入れた鋼の肉体で宿敵と激闘を繰り広げ、最後はKOするロッキーの姿を見て勇気をもらっていた。当時は自分がこんな身体に成れると思っていなかったが、映像で見るマッチョな主人公達はとにかくカッコ良かった。そんなヒーローたちを自分に投影しながら、何回も何回も繰り返し見まくっていた。

今になって思う。この頃から強くてかっこいい男や筋肉に対しての憧れがあったと。

中学生編

地元の中学生に普通に進学する。相も変わらずめっちゃ陰キャだった。

仲がいい友達が入るという理由で、剣道部になんとなく入部する。しかし、弱小校だったため練習中はチャンバラをして遊んでいた。3年時は一応キャプテンをしていたが、練習をサボることしか考えていなかった。

大会の開会式で整列の時に僕の中学の両隣が強豪校で、僕を挟んでお構いなしに合同練習の話をしていた。まるで僕らみたいな雑魚は見えていないかのように…
そんな陰キャスピリッツでは、当然成績を残すことなんて出来ずあっさりと引退した。

一方で背が伸びていて、中2の頃には170 cmを超えていた。
相変わらずの運動音痴だったがスポーツテストの握力だけは強く、中2か中3で60 kgくらいだった。この辺りから「あれ?俺って筋肉あるんじゃね?」と勘違いして筋トレを始める。

始めは腕立て伏せや腹筋、握力のトレーニングを自宅で行っていた。
卒業する頃にはリンゴが潰せるようになり、成長期だったこともあって筋肉はどんどん大きくなって、卒業時には同級生の中でもガッシリした方だったと思う。その頃からは同級生からは一目置かれるようになり、筋肉キャラのイメージが少しずつ定着。
誰からも注目されることのなかった人生で、初めて自分を見てもらえている気がした。この経験は自分にとって、筋肉と筋トレがある種の中毒になった瞬間になった。

陰キャが筋トレで輝くことができたのだ。

この頃の身体はジャニーズの筋肉がある人くらいのレベルだった。小さい頃に憧れたロッキーにはまだまだ遠い。

高校生編

中学時代は勉強ができたこともあり、地元の公立の進学校に進む。

高校では本気でスポーツをやろうと思い、高校から始めても通用する部活を選ぶ。
ボート部か弓道部で迷う。県内の高校数が少なくインターハイに行きやすいことと、めちゃくちゃ筋トレができるという理由からボートを選ぶ。

ボート競技は肉体的、精神的にもキツく、練習が面白くない。もともと奴隷の労働であった船を漕ぐという行為を競技にしたこともあって肉体的に超絶ハードだった。そして練習はただ同じコースを回り続けるだけという、短調でつまらないものだった。練習のつまらなさは僕が経験したスポーツでNo,1だった。

入部すると身体が他の同級生より大きかったこともあり、1年生の秋には対校クルー(一軍の4人的な感じ)に選出されていた。これはめちゃくちゃ嬉しかった。周囲から実力を認めてもらって、それが形になったのは人生初だった。
その後9月の初公式戦では県で準優勝をはたす。

一冬を超えて身体は成長していた。この頃になると内科検診に来たお医者さんにウワッと言われるくらい、高校生離れした筋肉が身についていた。
そのおかげか、2年生の高校総体も対校クルーの4人として、同級生から唯一メンバーに選ばれていた。3年生4人の中に2年生は1人だけ。練習はしんどかったし、何より先輩の引退がかかった試合というプレッシャーがすごかった。
ボートは水上に出たら、船の上のメンバーしか周りにいない。先輩方しか話す相手もいないし、練習中に同級生と関わることはなかった。先輩たちのことがとにかく大好きで、絶対インターハイに一緒に行きたいとずっと思いながら、ボートを漕いでいた。

迎えた本番当日。県総体の優勝校のみがインターハイの出場権を獲得できる中、結果はまたもや準優勝。
本当に悔しくて、申し訳なくて、とにかく泣いた。人生で初めてスポーツに本気で打ち込んで、でも自分の望んだ結果が出なくて、もう先輩たちと練習ができないと思うと、涙が止まらなかった。悔し涙を流したのは初めての経験だった。
船の1番後ろで悔しくて泣いていると、前の先輩方が「今までありがとう」と声をかけてくれた。

この経験は僕にとって衝撃的なものであり、ここまで自分が熱中して打ち込めることに出会えたことに感動した。同時に来年の最後のチャンスは優勝してインターハイに行くことを目標に練習に励んだ。

練習と自重トレーニングでそこそこのマッチョではあった高校2年の頃

2年の高校総体後の秋に腰を痛めて、船に乗れない時期が続いた。

この怪我の影響もあり2年生秋の新人戦は欠場することになった。僕たちの学年は部員が5人で、対校クルーには僕の代わりに後輩が1人選ばれていた。
結果は新人戦優勝。
この時は、純粋におめでとうと思った。同時に僕が入っていたらもっと速いと思っていた。

腰を怪我しているときは、同級生たちが船で練習に出てから帰って来るまで、懸垂や腕立て伏せを永遠にしていた。懸垂に関しては300回、腕立てに関しては家に帰ってからも合わせると500回くらいしていた。たぶん。
この経験が僕の肉体をさらに進化させた。
ボートの練習は嫌いなものも多く、努力してやっている意識はかなり強かった。
ところが、筋トレに関しては、努力と思ったことは1度もなかった。
誰に強制されるわけでもなく、筋トレは誰よりも好きだから、誰よりもやった。

高校3年になる頃には、遠征に行くと誰よりも目立つ身体になっていた。
同じ宿舎の他校の生徒から、風呂場でじろじろ見られるくらいに…
実はこれが超嬉しかった。自分たちよりも有名な強豪校の選手が僕の身体を見て話している声が聞こえてきて、優越感に浸っていた。

腰も回復して同級生5人で対校クルーを組んで、ゴールデンウィークの西日本の高校が熊本に集まって行う合同合宿に参加していた。
同じ県のライバル校も参加していて、タイムを測定していた。結果は約2秒の差で僕達が勝っていたのだ。これでめちゃくちゃ自信がついた。どちらかというと僕らは非力なチームで、僕以外は線が細かった。ライバル校は個々の能力が高く、体も大きかった。積み重ねてきた練習と同級生5人のチームワークがもたらした結果だった。
この日の夜、顧問から今年度いっぱいでの転勤の可能性が高いことを伝えられた。顧問の先生はうちの高校で正式採用されて、教員キャリアがスタート。ボートの経験は一切なく、自分で勉強しながら僕たちに指導してくれていた。
この出来事が、さらにインターハイへの思いを強くした。

そして同級生5人で臨んだ高校3年の県の高校総体。人生で1番緊張したし、この日が来て欲しくなかった。
結果はスタートに出遅れ、ゴールデンウィーク合宿では勝っていたライバル校に僅差で敗れ、インターハイ出場を逃す。同級生5人と顧問の先生と大号泣をした。
自分の高校最後の試合だったこと、顧問が転勤する前の最後の年にインターハイに連れて行くことができなかったこと、同級生ともう練習ができないこと、この3つが心の底から悔しかったし、辛っかた。

勝負に向かって全力で練習し、挑むという経験を高校までしてこなかった自分にとって、この経験は人生初の大きな挫折になった。

この1ヶ月後にあった、中国大会では県総体で負けた高校と1、2フィニッシュをした。中国大会2位にはなれたが、システム上インターハイには出場できなかった。

進学校だったこともあり、(一瞬、高卒で消防士になろうと思っていたこともあった)そこから受験勉強を始める。
勉強面は化学のみ好きで成績も良かったため、化学科を志すようになる。

この頃も家で腕立て500回(今は絶対できない)など、筋トレをしまくっていた。それもセンター直前まで。筋トレを辞めて普通の体に戻ることが怖かった。
センター試験は化学100点などを筆頭にうまくいったが、国立の前期試験の化学で盛大やらかし、見事に県外の第一志望に落ちる。

後期試験にまわり、地元の国立大学に入学する。

高校を卒業し、大学入学直後の身体

この頃の体はかなり逆三角形で、EXILEにいそうな感じの身体

大学1回生編

高校時代は特に将来の夢もなく(一瞬消防士になろうと思ったことがあった)、化学が得意だったこともあり化学科に入学する。

大学でも全力で打ち込める何かをやろうと思い、高校と同じボート部の見学に行った。しかし、部員数3人という状況と寂れた雰囲気にがっかりし入部を諦める。

その時にアメフト部から勧誘を受け、見学に行ってみることにした。
部員も多く楽しい雰囲気と、何より筋肉がつくという動機からアメフト部(WARRIORS)への入部を決める。このアメフト部で今の会社に呼び込んでくれた先輩の柳楽(なぎら)と出会う。

アメフトの練習はボートより楽しかったが、とにかく痛かった。すり傷やアザには耐性がなく、当たることが怖かった。
3年間水の上で同じ動きしかやってこなかった、元ボート部の僕にはアメフトの動きは難しすぎたのだ。
出来なさすぎて何回も辞めようと思ったが結局言い出せず、ずるずると続けることになった。(同期や先輩は好きだった)

一方、この頃は柳楽や他の先輩に「身体を大きくしろ」とめちゃくちゃ食わされて、いつも吐きそうになっていた。いわゆる飯トレというやつの洗礼を受けたのだ。そして同期12人の中で一番小食ということが発覚。
この食べることが苦手という、僕の最大の弱点が今後のアメフト生活を苦しめることになっていった。

同時に大学のトレーニングルーム(通称:スラムジム)でウエイトトレーニングを始める。このウエイトトレーニングとの出会いが、僕の人生を大幅に変えることになる。

初めて継続的にバーベルを使ったトレーニングをできることに感動し、黙々とウエイトトレーニングをしまくった。
1回生の冬は筋トレにのめり込み過ぎて週9回くらいのペースでやっていた。フォーム、メニュー、部位分けなどの知識もなく、食事にも全く気を使っていなかった。特にベンチプレスが大好きで、ウエイトトレーニングを初めた頃80kgだったのが1回生の終わり頃には140kg(ケツ上げ)くらいまで上がるようになった。
ちなみにこの頃のトレーニングパートナーは柳楽なことが多かった。

一方、筋肉だけでアメフトはどうにかなるものではなく下手っぴだった。

大学1回生の頃の身体、大胸筋が盛り上がっている。明らかに1年でデカくなった。人生で1番急成長した年になった。

大学2回生編

2回生になる直前の、愛媛県で行われた春合宿で練習中に右の肘を脱臼する。
結構酷い状態で人生初の救急車で病院へ行くことになった。
医者に整復してもらい、ギプスで固定を1ヶ月することになった。このギプスは取り外しができるタイプで、翌日お風呂で外すと上腕から手首にかけて真っ青になっていた。(ちなみに僕の腕が太くて、腕用ではなく脚用のギプスが使用されたのは嬉しかった。)

この怪我で筋トレが2ヶ月できなくなり、ベンチプレスが半分くらいの重量まで落ちる。医者の言いつけを無視し、ギプスが外れて1週間後にインクラインベンチプレスをしている時に肘が外れて落下したバーベルにより前歯が欠けた。
またしばらく筋トレができなくなるという事態に陥る。
この頃は筋トレができないストレスから精神的にしんどかった。

以降も様々な場面で脱臼を繰り返しその数は10回以上になった。一番自分でも驚いたのが、朝起きたら肘が外れていたことがあった。(一番最近では9月にトレーニングマシンを運んでいるときに外れた。)そんな生活もあって、いつしか自分で肘をはめ込めるようになってしまった。
この頃から僕の身体の1番のウィークポイントは右の肘になる。

後輩も入ってきて部活が楽しくなるが、アメフト自体は上手くならず…

ほとんど部活の仲間とつるんでいたため、学科では超浮いてボッチの陰キャ生活を送る。

当時の身体については、いい感じの写真がなかったが、体重が80kgくらいあり着実に大きくなっていた。

大学3回生編

脱臼から1年後の愛媛県での合宿、今回は特に怪我なく終えることができた。

しかし、愛媛から帰ってきてから数日後に謎の嘔吐と腹痛で病院に駆け込んだ。
点滴を打ってもらい帰宅したが、症状が治らずその日の夜に救急車で搬送された。

吐き過ぎで胃液を通り越して胆汁まで吐いてた。しかも、この胆汁がドス黒いというグロテスクっぷり…
病院に着いた頃には脱水症状で意識が朦朧としていた。
入院当初は胃が痙攣するくらい吐き続けて夜も全く眠れず、マジで死んだ方が楽ってくらいキツかった。体重が減り、Tシャツの袖が緩くなって入院当初は腕が太くて普通の血圧計では測れなかったが、退院前には普通に測定できるようになっていた。
細く小さくなっていく自分の身体を見るのが辛くて、悔しくて精神的にもかなり参っていた。

入院は思いの外長く2週間くらいの期間になり、体重も筋肉も落ち80 kg→72 kgに激痩せしていた。

入院中の僕、痩せ細った体が恥ずかしくて、本当は誰にも会いたくなかった

もろもろ検査したが絶食すると症状が治り、結局原因不明のまま退院することになった。(現在は症状がありませんが、もし原因がわかる人がいれば教えてください)

以降は3ヶ月に1度くらいのペースで1週間〜長いと1ヶ月の入院を繰り返すようになる。

いつ来るからわからない、地獄のような嘔吐と腹痛に恐怖しながら生活する日々が大学卒業まで続いた。その度に激痩せして、身体は退化する。自己嫌悪に陥って身体を戻すために食事量を増やす。そしてまた症状が悪化し入院。これが僕にとっては耐えがたいストレスになっていたと思う。

そんな中、部活では一つ上の先輩達が強く、なんと創部史上初のリーグ制覇を成し遂げる。日本の大学アメフトはリーグ優勝をすると全国トーナメントの1回戦にエントリーされるシステムをとっていた。
この年は北陸リーグの代表校と対戦することになっていて、広島の会場で福井の大学と対戦。
接戦の末に敗れ、先輩達は引退。
その後、僕は副キャプテンとチームのディフェンスリーダーに指名される。
「絶対に来年はこの全国トーナメント1回戦を突破しよう」この時強く思った。
1つ上の先輩方にいい選手が揃っていたため、このチームは来年は弱くなるとOBや他大学、ネット掲示板から言われていた。
それがとてつもなく悔しくて、過去最高成績を残したチームを超えるためにあえて自分達のチーム名を使った『OVER THE WARRIORS』というスローガンを掲げることになった。

勉強の方は本当にギリギリを低空飛行していたため、3回生の後期までギッシリ授業が入っていた。
なんとか進級できるだけの単位をとって、4回生に上がることができた。

21歳にしてこのサイズ。シンプルにデカい。憧れのロッキーレベルだと思うが、もっとでっかくなりたかった。

番外編:師匠との出会い

(少し時系列はずれるがご了承を…人生の転機です。)

2016年、大学3回生の夏頃、市営のジムでトレーニングをしていると、見慣れない人が視界に入ってきた。

年齢は40代に見えるが、発達した大胸筋と肩から上腕部の作り出すフォルムが異様な丸みを作り出し、背中も驚くほど広くウエストの細さも相まって、通常の人類とは明らかに違う逆三角のラインを演出していた。

これが僕が人生で初めて出会ったボディビルダー“師匠”との運命的な出会いだった。

僕が気づいた時には話しかけた。
僕というよりも、僕の筋肉がそうさせたのかもしれない。

福「でかいですね!腕と胸の丸みが凄いっす!!」

師「君こそデカイよ。大学生?なんかスポーツやってるの?」

福「ありがとうございます!!!!大学でアメフトやっています!」

師「そうなんだね。今度僕のいるジムに来てみてよ!」

福「はい!!行きます!!!!」

(文字に起こすと気色悪い会話ですが、当時の僕は目を輝かせていたと思います笑)

衝撃的な出会いだった。その日は師匠のトレーニングをガン見して、メニューを真似ようとしていた。
今でも交流があり地元に帰った時は、必ず挨拶しに行く仲。

師匠がいなければボディビルを始めていなかったかもしれない…

しかし師匠は
「僕がいなくても、福原くんはボディビルを絶対やっていたとも思うよ。だって、ボディビルをするために生まれてきたような人間だもん。」
と言ってくださる師匠。なんとお優しい…

間違えなく人生を変えてくれた1人だと思う。ありがとうございます。師匠。

師匠との1枚(2018年のため、めっちゃ良い体)

この出会いで、自分より圧倒的にデカイ筋肉を目の当たりにして、明らかに自分の肉体に対してのコンフォートゾーンが上がったように思う。井の中の蛙だったことを思い知らされ、この人よりデカくなりたい、強くなりたいと思い筋トレをやりまくった。

大学4回生前期編

進級する前、恒例の愛媛県での合宿が終わり2〜3日した後、例の腹痛で僕はまたもや入院する羽目になった。

今度は検査やもろもろも含めて、約1ヶ月の入院に…
入院中は本当にキツくて、絶食期間も過去最長の約3週間。水も飲めない日々が続いた。

82 kg→70 kgまで落ちて筋肉量の減少とともにメンタルもボロボロ。痩せた体で外に出ることが本当に恥ずかしかった。筋肉のない俺なんか誰も相手にしてくれないと、本気で思っていた。

退院翌日の僕、めちゃくちゃ萎んで普通の体になる。

しかし、今回も原因は分からないまま、とてつもない不安を抱えて大学最終学年を迎える。
春休みの練習や社会人チームとのクリニック(大学生が社会人の強豪チームに出向いて、アメフトを教えてもらえる遠征)に参加が一切できず、副将として情けなさとチームへ迷惑をかけている罪悪感から急いで体を戻そうと考え、人生で初めてジムに入会する。(詳しくはこのあと話します)

身体が戻ってくるとラストイヤーということもあり、今まで以上にアメフトに没頭するようになる。目標は前年に敗れた全国トーナメント1回戦を勝ってその先に進むことであったため、アメフトに使える時間は全てアメフトに捧げた。
しかしそんな気持ちとは裏腹に春から夏までの練習試合で1勝も出来ず、正直焦りしかなかった。

少し前にも書いたが僕の大学時代の学科は化学科で、4回生になると研究室に配属される。
完全に成績順で希望のところに配属されるため、成績の悪かった僕は14ある選択肢の第13希望(14個目は配属を希望しない)の研究室へ行くことになっていた。

研究内容は鉄のサビについてで厳しかったこともあり、平日は研究室に通って実験の毎日。化学が好きな人にとっては天国かもしれないがこの頃の僕は科学への興味は失せ、筋肉とアメフトのことばかり考えていた。僕にとって研究室での生活は苦痛でしかなかった。

そして大学最後の1年といえば、大きなイベントがある。進路選択だ。僕は化学科に進んだが、ここまでの3年間でそちらの方面に進む気持ちは完全に消え失せて、地元で高校時代に興味のあった消防士になろうと思っていた。(筋トレできるし)

そのため、そのほかに興味のあったフィットネスクラブを1社だけ受けてあとは、消防一本にしようと考えていた。

番外編:はじめてのジム入会

またもや時系列がずれますがご了承を…

4回生になって退院したその日に師匠のジムへの入会を決めた。
動機は入院で落ちた筋肉を最速で戻すためだ。

ジムに入るとオーナーのおっさんが入会の手続きをしてくれた。(元槍投げの国体選手でクソでかい)めちゃくちゃいい人でジムの雰囲気も最高。入会を迷うことはなった。

入会初日に師匠に会うこともでき、管理栄養士マッチョ、プロレスラーマッチョ、など他のジムメイトとも仲良くなれた。
この時に僕は思った。ジムとはなんと素晴らしいところだろう。身体を鍛えながら同じ趣味を共有して、仕事や年齢、関係なく褒め合い、励まし合って成長できることに本当に感動した。
そしてジムに通っていくうちに、

いつかこんなジムが作りたい…そう思うようになっていた。
この頃から自分でジムを作ることが人生の目標になっていた。

さらに、この頃から師匠にボディビルコンテストへの出場を本格的に誘われるようになった。
部活も研究室も忙しく減量もできないため、今年は無理でも社会人1年目は出てみようと考えることようになった。

大学に入る前からボディビルダーのトレーニングをYouTubeで見ていたが、毎日目にするでかい人のトレーニングは僕を別の世界に連れて行ってくれているようだった。僕の中でボディビルというものが、身近なものになった瞬間だった。

大学4回生後期編

夏休みからアメフトのリーグ戦が始まり、僕たちは最終戦まで全勝で勝ち進んでいた。

就職の方でも、倍率の高い地元の消防で最終試験まで進んでいた。

しかし、ここで大問題が発生する。

リーグ戦終了後の全国トーナメントの1回戦と消防士の二次試験が完全に重なっていたのだ。

試合に行けば、消防士にはなれない。
試験に行けば、1番大切な試合に出られない。

このときは「悩むのは決勝戦に勝ってからにしよう」と、心の中で決めて練習に打ち込むことにした。うちのリーグのシステム的に、決勝戦の相手とは一度戦って勝っていた。しかし、敵は主力が怪我で出場していなかったり、途中から戦力を落としていた。そのため、全く油断できる相手ではなく、選手の数も僕らより多かった。

そんなライバルとのリーグ決勝戦、天気は超大雨だった。ランプレーとパスプレーがあるアメフトでは、雨の試合だとボールが滑ってパスが決まりにくい。チームの特徴的にランプレー主体の僕のチームが有利な条件になった。
大雨の中の試合、14ー7でリードする展開で試合残り2分でロングパスでタッチダウン(アメフトではタッチダウンで6点、フィールドゴールで3点)を奪われ、14ー13とされてしまった。僕のいたリーグの規定上、一度勝っている僕たちは引き分けでも優勝となることが決まっていた。

アメフトはタッチダウンの後、ゴール前からもう一度プレーをすることができ、タッチダウンで2点、キックで1点追加されるルールがある。引き分けでは優勝できない相手は、もちろんタッチダウンを狙ってきた。

しかもそのフォーメーションがめちゃくちゃ特殊なものだった。
本来なら想定をして止める練習をしていなければならなかったが、やっていなかった…(完全に僕のせい)
『あーやばい』と心の中で思っているうちにプレーが始まった。
結果的に後輩のファインプレーで無得点に抑えることに成功した。
めちゃくちゃホッとした。

しかしここで終わらず、オンサイドキック(キックオフで相手に攻撃権を渡さないようにする)を成功されてしまう。勢いは完全に向こうに傾いていた。本当に心臓に悪い1分30秒だった。
そのあとはきっちり守り切ることができて勝利。
2年連続のリーグ優勝を果たした。

本当に嬉しかった。一瞬喜んだ。
それと同時に22年間の人生で1番の分岐点に立たされた。
そして一瞬迷った。

だが、僕自身には試合に行く以外の選択肢はなかった。寸分の迷いもなく、試合が終わった瞬間に試合に行くことを心の中で決めていた。
チームメイトもそう言ってくれていて、周りも僕の意見を尊重してくれると思っていた。
しかし、教授や師匠、親は就職試験を受けるべきという意見だった。

その日のうちに家族会議が開催。
母は涙ぐみ、父は論理的に諭してきた。
しかし、何を言われても気持ちが揺らぐことは全くなかった。
それどころか、この話し合いの時間もアメフトのことを考えていたいと思っていた。ヘタクソなりに頑張って練習し、肘や内臓をボロボロにしながらアメフトに捧げた4年間を犠牲にすることは到底できなかった。
仲間と過ごした4年間でいつの間にか、アメフトが大好きになっていたのだ。

家族も無事説得し、11/5(日)試合会場の金沢に乗り込んだ。

キックオフ直前の整列。腕が太い。

前半は僕が率いるディフェンスが8−0と守り抜きこちらのリードで折り返した。しかし、後半で相手のスペシャルプレー(サインや動きが特殊で相手を撹乱する秘密兵器的なプレー。同じ試合では相手にバレるため、通常は1度しか使えない。綿密な全体での練習が必要。)にリズムを乱され、エースの負傷で攻撃力を欠いた僕たちは攻めきれないまま、ついに試合残り1分30秒で11ー14に逆転されてしまう。

1分30秒で追いつくことを狙い、最後の攻撃に臨んだ。相手の守備に阻まれ残りワンプレーがギリギリできる時間まで追い込まれた。
距離的にも厳しいが、フィールドゴールキックで3点を追加して延長戦に持ち込むことにした。
運命の最終プレー、キックしたボールが相手に弾かれた。落下するボールがスローモーションに見えた。
そのボールを僕がキャッチした直後にタックルされて試合終了となった。

マジで号泣した。物語の主人公なら試験を捨ててきた、ここで勝って試合を選んで良かったーという流れになっていたと思う。しかし現実はそんなことはなく、人生って難しいなと痛感した。アメフト生活は終わりだし、僕の青春も終わったと思った。

しかし、
このまま終わっていいいのか?
負けて終わりでいいのか?
そう思った。
この時、社会人でも何か没頭できるものを作ろうと決意した。

試合を取ったせいで消防士になる目標は一旦諦め、唯一受けていたフィットネスクラブに入社することを決める。
正直、消防士になることに疑問を感じていた部分もあり、試合に負けてから本当に自分のやりたいことを考えていた。そんな時『ジムが作りたい』という結論が意外とすんなり出た。
結局どこまで行っても自分の好きなことは筋トレと筋肉で、僕の人生を幸せにするには筋トレと筋肉を仕事にするしかないと思った。

試合が終わるとすぐ、今度は卒業研究に追われる日々が始まった。
実験→測定→データ処理→考察→論文という流れで作業し、教授には毎日キツいことを言われて精神的に辛かった。(今では圧倒的にパワハラ耐性がついて感謝している笑)
さらに年明けからは朝から日付が変わるまで、ずっと研究室に籠る生活が続いた。もちろん筋トレなんてできず、身体は萎み苦悩の日々が続いた。

ここまで読んできたみなさんはお気づきかもしれないが、僕は筋トレの充実度で幸福度が左右される人間のようだ。
この頃、また謎の腹痛で入院したりと、人生で肉体的、精神的に1番キツイ時期だった。

そこを乗り越えてなんとかギリギリ、4年間で大学を無事に卒業することができた。

4回生の頃は最後の試合の頃が一番大きかった。体調が安定しなかったこともあり、3回生の頃とあまり変わらない体だった。ロッキーレベル。

愛媛編

社会人になりフィットネスクラブに入社するため島根を出ることになった。

最初の配属は愛媛県松山市で、大学時代から因縁のある(大学に落ち、合宿では怪我や入院をする羽目になっている)場所だった。

仕事はそこそこ楽しくトレーニングの指導以外にレッスンや数値の管理など、幅広い業務を行っていた。大学時代に部活や研究で忙しかった自分にとっては楽だと思うことの方が多かった。
将来ジムを作りたい僕にとっては、吸収できることも多かった。

自分の筋肉に関しては松山で1番マッチョが集まるジムに職場とは別に通い、トレーニングに励んだ。

そして師匠と約束したのでコンテストに出場することにした。ボディビルではなく人気の高い、フィジークに出ることにした。今思えばいきなりボディビルの方が良かったと思う。かっこいいので。

当時は1年目から優勝できると根拠のない自信があった。しかし、減量していくと身体はどんどん小さくなり、ガリガリになっていた。大会に出る頃には、すっかり弱気になっていて自信は消え失せていた。
結果は中四国メンズフィジークという大会に出場し4位入賞。

腹筋のコントロールも甘く、何より白い笑 この頃は73kgくらい。

そこから1ヶ月後に東京で開催された、オールジャパンメンズフィジークという全国規模の大会のジュニア部門に出場した。この大会は表彰台を狙うくらいのつもりで出場して、結果はまさかの予選落ち…
減量終わりに食べたアイスが美味すぎて、悔しさと合わさって静かに泣いた。

初減量からの解放と悔しさを通り越して情けなさと、自分がいかに井の中の蛙だったかを思い知らされた。

そこからさらにトレーニングに熱中するようになった。

この頃はロッキーは軽く超えていたが、今年負けたフィジークで優勝したい気持ちが強かった。
負けたままでは終われない。もっと勝てる体になりたいと思っていた。

番外編:はじめの全国レベルのボディビルダーとの出会い

松山で通っていたジムに、全国レベルの大会で優勝するようなとてつもないボディビルダーの方がいた。

はじめて会ったときの衝撃は凄かった。

まず、デカい。とにかく、デカい。異様にデカかった。

上半身は発達した胸、背中から作り出される凄まじい厚み、そこから生える極太の腕肩が目を引いた。そして下半身は臀部からハムストリングにかけての盛り上がりが異常で同じ人間に見えなかった。

話しかけると少し気むずかしい人で、トレーニングを教えてもらえるようになるまでに、数回かかった。

この時に解剖学の重要性やトレーニングスキルを学ぶことができ、以降トレーニングをより考えて行うようになった。
トレーニングの基準が急激に上がった。

関東編

社会人2年目になる直前、転勤を命じられ4月から埼玉で働くことになった。

仕事内容は変わらずな1日を過ごしていた。このままだと絶対に成長できないと思い、埼玉に行ってすぐに転職を決意する。

そんな中、選手としては飛躍の1年になった。
7月の埼玉オープンメンズフィジークで優勝、8月はボディビルに2つ出て2位、3位に入賞しました。(肝心の全国大会は予選落ち。。。)

埼玉オープンフィジークで優勝した時(76〜77kg)

優勝を経験できたが上には上がいることを思い知り、同時に自分が1番になりたい欲求が強くなった。誰よりも大きく規格外の肉体になりたいと本気で思うようになっていった。
トレーニングを見直し、週7回で2〜3時間かけて自分を追い込んだ。
この道を人生をかけて極めると心に誓った。

フィットネスクラブで働き、大会に出ながら転職活動をし10月から東京の会社でパーソナルトレーナーとして働くことになった。

この選択は自分にとって試練になった。
トレーナーは筋トレを教えるだけでなく、クライアントを楽しませる会話など本質以外のところでも勝負できる力が重要だった。
筋トレと部活しかしていなかった僕にとって、女性が好きなファッションやアクセサリーの知識を勉強することは苦痛でしかなかった。

自分のやりたかったことはこれではないと思っていた頃に、大学の先輩である柳楽から連絡があった。

大阪にパーソナルジムを作るからこないか?という内容だった。これが2019年12月で年末年始の休暇を利用し大阪で柳楽と面談。
この時に柳楽が働いている株式会社GOAL-B(柳楽が初期メンバーとして入社した会社)ができた経緯やその社長でYouTuberのAKIOBLOGのことを深く知ることになった。AKIOBLOGの動画もこの頃に見始める。(ちなみにこの年末に柳楽と銭湯に行き、マンタのように広い背中からマンティ福原と命名された。)結局すぐには転職することができずに、2020年6月から入社という方向になった。

柳楽の大学の頃からの成長具合に圧倒され、スタートアップ企業でバリバリに力をつけていることを肌で感じた。

ところが流石はGOAL-Bということが起きる。もう少し早く転職して欲しいと言われ、当時の職場で学びたいことも多くもう少し東京のジムに止まることを決意。
その後、別のトレーナーの方が入社しこの話は保留となった。

そこからはコロナ騒動もあり、パーソナルトレーナーにとって厳しい時期が続いた。暇な時間が増えて自分が何を目的に働いているのかわからない時期が続いた。

転機が訪れたのは2020年6月、柳楽から会員制ジムを作るから名古屋に来て欲しいと打診を受けた。速攻でYESと返事をした。こんなに早く目標に手が届くと思っていなかったから、そこからの行動は早かった。すぐに上司に退職を伝えて8月から名古屋に移った。

当時の体は、憧れのロッキーをとっくに超えていたはずだが全く満足することなくデカくなり続けたいという欲求は強くなるばかりだった。

番外編:はじめの全日本選手権ファイナリストとの出会い

またまた番外編。

関東に来て憧れだったゴールドジムに入会してしばらく経った頃、初めて全日本ボディビル選手権(通称ミスター日本。日本一レベルの高いボディビルの大会。この大会の優勝者が日本一を名乗ることを許される)のファイナリスト(決勝進出者12名のこと。ボディビル界の神々)に出会った。

同じ人類に見えなかった。僕の筋肉が震えた。
異様に広い背中本当に畳一畳くらいに見えた。腕はもちろん太いのだが、一つ一つの筋肉の盛り上がりによる異様な造形に目を奪われた。
扱う重量は化物級で、僕ではびくともしないような重量を丁寧に扱いながらトレーニングしていた。

トレーニング風景を生で観れていることに感動しながら、その人の動きを見て盗み自分のものにしようとしていた。

この経験が自分のトレーニングの質を圧倒的に高めることになった。

GOAL-B

自分の本当にやりたいと心から思った、ジムを作る仕事がこんなに早くに実現すると思っていなかった。人生最大のチャンスが来た。絶対に成功させてやる気持ちで株式会社GOAL-Bに入社。

初めてベンチプレスをしたあの日の感動や新しいマシンに触れるときのワクワクを伝えていきたい。もっと多くの人にジムに通って筋トレをすることで自分に自信をつけてもらいたい。筋トレで人生を明るく楽しいものにして欲しいと心の底から思って今トレーニングジムGOAL-Bで働けている。

自分に自信のなかった中学生時代から筋トレを通じていろんな人と出会い、自分に自信が持てた。その筋トレのおかげでGOAL-Bの仲間と最高のジムを作る仕事ができている。そんな今がマジで楽しい。ここまでこぎ着けてくれた筋トレと筋肉にはめちゃくちゃ感謝している。

【努力する者が楽しむ者に勝てるワケがない】

漫画バキの名言だがまさにこれに尽きると思う。楽しむことは努力以上のパワーを生み出す。僕は筋トレを始めてから今まで一度も筋トレを努力だと思ったことはない。僕は筋トレが好きでとにかく楽しいから続けてきた。そして気がついたら10年が経っていた。
これからもそれは変わらないし、この素晴らしさを伝えることが自分を変えてくれた筋肉と筋トレに対する最高の恩返しだと思っている。

今後の挑戦

小さい頃憧れていたロッキーを超えてジムを作る目標が実現できるようになった。

そんな今、今度は別の欲求が強くなっている。それもとてつもなく強く。

【筋肉で1番になりたい】

誰よりも大きくかっこいい体になってみたいと本気で思うようになっている。それは昔憧れたロッキーやターミネーターを超えて、圧倒的な肉体を手に入れてみたいという思いになってきている。
この思いは日に日に大きくなっていて、今の自分の身体を画が身で見るのが嫌でしょうがない。

僕自身は今まで自分の体に1度も満足したことがない。
どこまでもデカくなりたいし、太くなりたい。きっとこの想いは死ぬまで終わらないと思う。ここが自分の限界だったら悔しいし、こんな体で終わりたくないと思っている。

またも漫画、刃牙のセリフだが、

【ある物は生まれてすぐにッ―
ある者は父親のゲンコツにッ ある者はガキ大将の腕力にッ
ある者は世界チャンピオンの実力に屈してそれぞれが最強の座をあきらめそれぞれの道を歩んだ
医者 政治家 実業家 漫画家 小説家 パイロット 教師 サラリーマン
しかしッ
今夜あきらめなかった者がいるッ 偉大なバカヤロウ!!!】

これが僕の場合は筋トレと筋肉であり、未だに諦め切ることができないでいる。1度きりの人生で、建前を気にするのを完全にやめたときに本当にやりたい事として出た純粋な答えが、

筋肉で1番になりたい

やはりこれだった。

現状維持は衰退。死ぬまで満足することなく死ぬまで筋トレと筋肉を愛し、死ぬまで挑戦し続けていく。

まずはボディビル日本一。必ず達成する。

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