【宅浪→京大アメフト→ベンチャー】「誰かの夢中が、新しい挑戦を生む世界」をつくる

誰かの夢中が、新しい挑戦を生む世界をつくる

はじめまして。岡田淳と申します。

僕は本気の本気の本気の本気で
「誰かの夢中が、新しい挑戦を生む世界」をつくろうとしています。

そしてここには、
なぜそのような世界をつくろうという考えに至ったのか
そのような世界になったとき、どのようなインパクトがあるのか
をまとめました。

ちなみにこの文章は、
僕が大学を卒業し、1年で仕事を辞め、
残りの人生をどうやって過ごそうか
そもそも残りの人生過ごす意味はあるのか
と考えていた時に書きました。

ここからは少々長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。
各フェーズごとに、出来事と気づきの流れでまとめています。

 

小学校時代 サッカー少年

サッカー選手を夢見る、どこにでもいる普通の小学生

大阪生まれ。

スポーツも勉強も平均的、
特に親から怒られることもなければ、褒められた記憶もない。

日本代表サッカーチップスのカードを集め、
キャプテン翼に憧れ、
卒業文集に「将来の夢はサッカー選手」と書くようなサッカー少年。

 

中学校時代 部活と勉強の両立

部活と勉強の両立

地元の公立中学校へ進学。

サッカー部に入部(入学した年にできた)。
鬼のような顧問の先生のもと鍛えられる。

ちなみに、鬼のような教師とはまさにこの方のことで、
「練習がしんどければしんどいほど試合が楽になる」
という考えを地で実践する方だった。

特に印象に残っているのは、先生自ら名物と称する「オールコート1対1」。
その名の通りコート全体を使って1対1をする。
他にも、ゴール前に1人が立ち、他の全員が蹴ったボールをひたすら返す練習もあった。

ちなみに夏の練習は毎日吐いていた。
吐けば少しの間、トイレで休憩できるからだ。

練習はきつかったが、そのおかげもあってか創部2年目で府の中央大会に出場することができた。

この経験を通して目標を実現するには、それに見合うだけの努力が必要になるといった考えが腹落ちした。

また勉強面では、父親が買ってくれた漫画「ドラゴン桜」を読んで、漠然と東大を目指すようになる。特に、勉強することで自分の人生を切り開くという考えに共感した。

中学3年生のときにはサッカー部のキャプテンとなり、勉強も学年で上位に入るようになる。そして私立高校に特待生として入学することになる。
(写真:中学サッカー部時代)

 

高校時代 不完全燃焼に終わり浪人を決意

充実した高校生活と不完全燃焼に終わった受験

自宅から自転車で30分の高校へ進学。

サッカーと勉強の両立の日々が始まった。

部活は、サッカー推薦の制度は無かったが、
優秀な監督の元、選手が集まり、高校2年のときに選手権大阪府大会でベスト16に入る。最後は大阪桐蔭に負けた。ちなみにこのときはずっとベンチで応援するだけだった。

練習は毎日きつかったが、先輩方は優しかったし、同期も本当におもしろい人が多く、練習後にコンビニへ寄って買い食いし、大笑いしていたのが懐かしい。

入学当初、部活は高校3年の秋まで続ける予定だったが、
高校3年の春の大会を最後に部活を引退。

受験勉強に専念することに。

高校3年で中高一貫コースの特進クラスに編入。

担任の先生には笑われていたが、
模試の志望校の欄には「東大」となんの躊躇もなく書いていた。

本格的に受験勉強を始めるものの、なかなか成績が伸びず、
サッカー部への未練が出てくる。テレビでサッカーが流れるたびに、
もう一度みんなとサッカーがしたいという強い思いに駆られた。
この時の経験から、大学では必ず部活は最後まで続けようと決心する。

高校生活自体は本当に楽しかった。
部活以外にも運動会や文化祭、
修学旅行やクロスカントリー大会など、どの行事も楽しい思い出ばかりだ。

受験の結果は、東大はおろか、前期神戸大学農学部不合格。
後期の神戸大学海事科学部と同志社大学、防衛大学は合格するものの
不完全燃焼に終わり、このまま再挑戦しないと後悔すると思い、浪人を決意。

 

浪人時代 京大でアメフトをやるため宅浪で京大合格

人生を変えるきっかけと出会い、浪人の末、京都大学合格

一年間あれば東大に合格できると謎の自信があった。
(今考えるとただの自信過剰でしかない)

経済的な面も考慮し、宅浪を選択。
定期的な模試だけ親に頼み込んで受けさせてもらった。

夏、高校サッカー部の同期と久しぶりに会う機会があった。
身体がかなり大きくなってるのを見て驚いた。
大学でアメフトを始めたとのことだった。

その後、どうしても気になり、
アメフトで色々検索した。
そして、「アメフト×国立大学」で京大の記事がたくさん出てきた。

「京大生がスポーツで日本一」を本気で目指している。
勉強しかしてこなかった素人集団が、
強豪私立相手に同じ土俵で激しく戦っている。
そして日本一を成し遂げようとしている。

こんなワクワクすること他にあるのか?

当時Youtubeに上がってた京大アメフト部の新歓PVを見た。

絶対にここでアメフトをすると決意。

この日から京大志望に変更、猛勉強が始まる。

ちなみにこのときの生活サイクルは以下の通りだ。

8:00 NHKの朝ドラを見る
9:00 近くの公民館の自習室で勉強
昼食や休憩を入れながら、夕方まで勉強
19:00 帰宅後、1時間のジョギング、夕食
22:00 自宅で勉強
24:00 就寝

この生活を毎日続けた。

そしてこのときから
現役生のときに東大を目指すのは無謀だと笑ってきた先生が
卒業生にも関わらず英作文の添削を行ってくださった。

そして、他の先生方も受験に関するサポートをしてくださった。

今でも当時の先生方には本当に感謝している。

時には、一人で勉強をする中で不安になることもあった。
そのたびに京大アメフト部の動画を見た。

劇的に成績が伸びることは無かったが、周りのサポートのおかげもあり、
なんとか挑戦できるラインまではたどり着いた。

センター試験が終わり、可能性20%の農学部にするか、50%の医学部人間健康科学科にするかで迷ったが、どうしても京大でアメフトがしたく、2浪は経済的に厳しいので人間健康科学科の受験を決める。その学科の中でもスポーツが大好きだったので、将来的にその関連の職業につくのもありかな、くらいな安易な考えで理学療法専攻を選択した。

二次試験の会場へ向かう道で何度もアメフト部の動画を見た。

とにかく1年間やってきたことを出し切った。

結果は合格。

両親はもちろん、祖母も喜んでくれた。

また、高校の先生も大喜びしてくれた。

今振り返ると、なんの実力もない、ただの自信過剰な浪人生が
かなりリスキーな挑戦をしたなと思う。

それでもこの経験を通して、
本当にやりたいと思えることを見つけて
その実現のために夢中になる経験は
自分にとって大きな財産になったと言える。

 

大学時代 京大でアメフトに没頭する5年間

一回生・・・念願のアメフト部入部、アメリカ短期留学で様々な教訓を得る
二回生・・・レギュラーになるべく練習を重ねる
三回生・・・初めての大きな挫折と心境の変化
四回生・・・ラストイヤー、自分の全てをかけた一年間
五回生・・・就活と内定者研修、病院実習、フレッシュマンコーチ

入学後すぐにアメフト部に入部を決意。
(基本的にアメフト部は新入生に猛烈な勧誘をかけるが、自分のような元から入部を決めている人も一部存在し、こういう人達を志願兵と呼んでいる。)

憧れのキャンパスライフを送る。(写真:入学当初)

グラウンドとアメフト部のクラブハウス、寮を往復する生活。

当時アメフト部の留年率は100%、入部とともに5か年計画がスタートした。

当時の監督の方針で学業にも力を入れていたものの、
ギリギリ単位を取れる以外はほとんど勉強した記憶がない。

とにかく「24時間フットボール」を掲げ、
日本一を目指し強豪私立の関学・立命・関大を倒すことだけを考えて
毎日過ごすことになる。

1回生・・・フレッシュマンチームでの育成期間

基本的に京大は部員の8割強がアメフト未経験者だ。上回生と練習する前にまず1回生だけでヒットやタックルなど基本的なことを身に着ける。ウエイトトレーニングなども一回生だけで行う。

1回生の時の一番印象的な出来事は、7月に1か月間、本場アメリカのカレッジフットボールのチームに一人で突撃し、練習の見学をさせてもらうという企画だ。

1回生が20人くらいが参加したが実際に練習を見学できたのは数人だった。自分はその1人で、たまたま練習施設の外で話しかけた女性がヘッドコーチの秘書で、急に施設の中へ呼ばれVIPPASSを作ってもらい、その日から毎日見学できるようになった。そこから毎日のようにアラバマ大学へ行き練習を見学した。(今考えるとものすごく貴重なことだが、当時はアメフトのことを何もわかっていなかったので、すごくもったいないことをしたなとも思う。)

その時の英語は片言。身振り手振りと受験で覚えた単語を何とか羅列して意思疎通した。リスニングは壊滅的で、会話は困難を極めた。

ただ”Awesome!!!”と言えば、盛り上がることは感じ取れた。

このアメリカ短期留学の経験を通して、
「行動すること」の大切さが腹落ちした。

あのとき、英語がうまく話せないからと、
あの女性に話しかけていなかったら練習を見学できることは無かった。

一歩踏み出すことで自然と物事はいい方向へ進み、
思わぬところで人生を変えるような出来事に
出会うことができると思うようになった。

(写真:アラバマ大学の選手と記念撮影)

2回生・・・ブルーチームで下積み

2回生になり、徐々に身体も大きくなってきた。
体重が100㎏を超えて基礎的なことも少しずつできるようになってきたが、レギュラーとして試合に出るには程遠い。

レギュラーチームの仮想敵チーム(京大ではブルーチームと呼ぶ)として活動した。
補足になるが、アメフトではこの仮想敵チームの質がとても大切だ。
相手の戦術を分析し、その動きや戦術をいかに再現し練習するかが
試合に勝つための準備で必要になってくる。

自分はとにかく経験を積むために、ブルーチームに入れるだけ入った。
多い時には、2日間の練習で3試合分のプレイ数をこなすほどだった。

3回生・・・秋シーズン1試合も出場できず、大きな思考の転換のきっかけを得る

3回生になり、ブルーチームでの下積みが徐々に成果となって表れてきた。
そして、春はレギュラーとして試合に出場、このまま秋のリーグ戦も出場できると思っていた。

客観的に振り返ってみると本当に甘かったなと思う。

フィジカル的にもスキル的にも関西の一部リーグで戦うには足りないことだらけ。そしてなによりチームのために何かをするという行動が不足していた。そこに目を向けず、あくまで自分ができる範囲のことしかしていなかった。

そして、夏になり、シーズンが近づいてきたところで、スナップ(ボールを最初にQBに投げて渡す行為。スナップと同時にプレイが始まる。)のミスが目立つようになってきた。

そしてスナップが安定しない以上、試合に出すことはできないと、同ポジションの4回生にレギュラーを奪われる。

その考え方には納得した。たしかにチームの大切なボールだ。
それが奪われるようなことがあってはならない。
多少強い相手に押し込まれることはあれど、ボールは何が何でも失ってはいけない。

そして迎えた秋シーズン。自分は1試合も出場することがなかった。

1試合どころか1秒も試合に出ることは無かった。

この時は悔しいという思いを通り越して、情けなさでいっぱいだった。

両親や祖母がたまに試合を観に来てくれるのだが、自分はずっとベンチ。

同期は試合に出て活躍している。

サイドラインに立っているときに何度も思った。

どれだけ試合に出たいと思っても、自分はこの白い線を超えることができない。

しんどそうにしている仲間を助けることも、
ナイスプレーをして喜んでいる輪に入ることもできない。

恥ずかしかった。悔しかった。情けなかった。

シーズン中(8月~12月)は、2週間ごとの試合に向けて練習のスケジュールがほぼ固定化されている。チーム全体で紅白戦をしたり、戦術の確認を行うのだが、レギュラーがメインで補欠はほとんどプレイをしない日もあった。

毎日練習に行っても、
今日自分はこのグラウンドに何をしに来たのかわからない。
そんな毎日が続いた。

自暴自棄になっていた。

練習時間ギリギリに参加し、練習が終わればすぐにクラブハウスに帰り、
ご飯を急いで食べすぐに帰る。そんな生活だった。

そしてこのころ、何かをしていないと暗いことばかり考えてしまうので気を紛らわすために本を読むようになった。最初は適当に選んだ東野圭吾など小説がメインだったが、途中から司馬遼太郎の歴史上の偉人たちの話や、経営者、アスリートが書いた本を読むようになった。

そこにはだいたい似たようなことが書いてあった。

現状は全て過去の自分の行動の結果。
自分が成功したければ、周りの成功を手伝いなさい。
自分がしてほしいと思うことを先に相手にしなさい。

正直よくわからなかった。
もちろん字面ではわかるものの、
腹落ちしていなかった。

しかし、このどうしようもない状況を打開するにはまず行動するしかないと思った。

そこから自分の行動を変えた。

ブルーチームを引っ張るのは自分しかないと、自己定義をブルーチームリーダーとして、スカウティング(試合のビデオを見て分析する)の時間を増やし、ブルーチームのミーティングを開き、後輩たちのプレイの理解を促すようにした。また個人的にも練習後に最後まで残って練習をし、トレーニングも別でするようになった。

とにかくクタクタになるまでグラウンドから出ないと決めて毎日を過ごした。

そのように行動していると、徐々に今までの自分がかっこ悪く思えてきた。

たしかに自分の慢心から成長し続けることを怠った結果だ。
自分のことしか考えず行動してきた結果だ。

悔しさは消えない。恥ずかしさもなくならない。情けなさも消えはしない。

でも、それ以上にこの3回生のシーズンで大切なことを学んだ。

4回生・・・ラストシーズン。4年間の全てをぶつける。

ラストイヤー。ここで自分の全てを出し切らなかったら一生後悔するという強い覚悟と共に、常に「チームの勝利のために動く」ことだけにフォーカスした。
ポジションのパートリーダーに立候補し、幹部のミーティングにも参加した。オフの日にもミーティングをしたり、とにかくチームの勝利のために時間を使った。

具体的には、チーム全体のヒットが改善するようなメニューを考えたり、練習でのナイスプレイをまとめた動画や、試合前のモチベーションアップ動画を編集したり、フットボールノートを作り毎日全員が振り返りできるような仕組みを作ったり、少しでも「勝ち」に近づくと思うことはなんでもやった。

さらに、オフェンスチームでの発信はもちろん、200人が集まるミーティングでも発信するうちに周りからの見られ方が変わってくるようになった。

自分がチームを必要とすればするほど、チームも自分を必要としてくれるようになった。

そして春秋ともレギュラーとして試合に出場。そしてチームとしては6年ぶりに関大に勝利した。しかし、入学当初からの目標である打倒関学立命、日本一になるという目標は達成できず、後悔の残る結果となった。(写真:4回生時の関大戦、自分は55番)

5回生・・・内定者研修、病院実習、フレッシュマンコーチ

・就活と内定者研修

12月にシーズンが終わり部活を引退し、すぐに就活を始めた。

アメフト部の先輩方は商社やメーカー、テレビ業界等々、各業界の一流企業で活躍されている。自分も入学当初はそのような姿に憧れていた。

しかし4年間、部活を通して出会ってきた様々な方の影響もあり、なんとなく経営者というものに憧れていた。

別にこれと言ってアイデアがあるわけでなく、したいこともなかった。

ただ漠然と経営者になり、組織を動かし、大きな影響力を持つことが幸せにつながると思っていた。

そのためには、ファーストキャリアとして、若いうちからビジネスの経験を多く積むことができるベンチャー企業を選択しようと思った。

そして、いくつかインターンに行き、最終的に都内の150人ほどの規模のベンチャー企業に決めた。

かなりハードに働くことで有名な会社だった。

しかし、これは覚悟の上だった。むしろ、外資系企業が多い領域で日本の小さな企業が勝ち残ろうとするなら、それに見合った労働が必要だ。
ある意味筋が通った考えに納得した上で、3月に内定を頂いた。

4月からさっそく内定者期間は研修があった。
そこでは、プログラミング、財務、マーケティング、採用、ビジネス基礎、データ分析、営業の基礎知識を徹底的に叩き込む。

月に1度テストがあり、この成績次第で入社時の給与が変動するという決まりもあった。当時はついていくのに必死で成績はいつも底辺をさまよっていた。しかし、この段階で普通の大学生ではできないような経験をさせて頂いたことにはすごく感謝している。

・病院実習

医学部の理学療法を専攻しており、半年間の病院実習がある。
1月からスタートし、3回に分けて6月ごろまで実習が続いた。
毎日朝8時から夕方6時ごろまで病院で活動する。

メンターの先生について見学をしたり、
実際に患者さんの治療プログラムを考え、
施術し日次の報告書を作り、定期的に出される課題などをこなした。

その間にも内定者研修の課題もあったため、このときの睡眠時間は3時間もなかった。

家に帰って布団に入ると起きれないとわかっていたので、
毎日図書館の机で寝ていた。(京大には24時間空いている図書館がある)

大変反省しているが、実習中、メンターさんの横でウトウトしてしまい何度も注意され実習中断であやうく留年する一歩手前までいったこともあった。

それでも、患者さんと接すること自体は苦に感じなかった。

ある病院では、最後にお別れのあいさつに行ったときに、涙を流してくださったことがあった。
こんな自分でも役に立てることがあるんだなと心の底からうれしくなった。

色々あったが、メンターの方や、教授陣の支えもありなんとか実習を終えることができた。

・フレッシュマンコーチ

病院実習が終わると同時にアメフト部に戻り、
フレッシュマンコーチを始めた。

指導するのは初めての経験だったが、彼らに少しでも早く戦力になってほしい、少しでも強くなってアメフトが面白いと思ってほしい、そんな思いで毎日練習を見ていた。

このときも内定者研修や会社の行事で東京へ毎月のように行っており、周りの同期のサポートのおかげで何とか両立することができた。

12月にフレッシュマンチームの一年間の集大成として、同志社大学と一回生同士の試合を行った。残念ながら負けてしまったが、彼らの成長を実感することができてうれしかった。(写真:フレッシュマンコーチと一回生のお疲れ会)

コーチとしての活動も終わり、理学療法の国家試験と内定者研修の勉強の日々が始まった。

しかし、どうしても国家試験の勉強に身が入らなかった。病院就職をするわけではないので取得する必要はなかったが、これは単なる、やらない言い訳で勉強することから逃げていた気がする。

そして国家試験を受ける前に東京の家を決めて働き出すことにした。

東京に出てインターン生という形だが少しずつ業務に関わらせて頂けるようになった。それでも東京にいた他の内定者に比べるとかなりの差が出ており焦りはあった。

毎日2,3時まで残って作業をし、そこから内定者研修の勉強をする。
周りの同期も毎日そんな生活だった。
そして、その帰りにジムに行く生活を送っていた。

そんな中、受験した国家試験だったが、受験後なんの手ごたえもなく見事に落ちた。自分にとって唯一やり遂げなかった経験になった。

 

社会人一年目 ITベンチャー企業で営業→1年で退職

・開発チームでの学び
・営業への異動とわずかな成長
・社会人一年目で退職する

2019年3月ごろから開発チームで業務を行うようになった。

保守運用チームに入ることになる。2年先輩の方と2人のチーム。
全てのことが初めてで、一日に何度質問したかわからない。
そのたびに先輩の手が止まるので、自分専門の質問チャットを作り、フォーマットまで決めて質問していた。

開発チームの中でも、保守運用チームはコードを書いてプロダクトを開発するのではなく、AWS上のサーバーの状況を把握、監視してサーバーのダウンを事前に防いだり、原価削減のためシステム全体の効率化などを設計する。(かっこよく書いたが、ほとんど先輩の仕事で自分は雑用だった)。それでも自社サービスの表層だけではなく、システムからの理解を深めることができた。
その後、開発の別チームを転々とし、様々な経験を積ませてもらった。

そして突然、営業への異動となった。もともと職種にこだわりがあったわけではなく、企業の理念やビジョン実現に少しでも貢献できるならとどこにいってもやることは同じだと思った。

そして2019年8月、営業での活動がスタート。
会社の中で一番厳しいと言われる部署だった。
代表が元バリバリの営業マンということもあり、
そのDNAが色濃く受け継がれていた。

自分が入った当初は全体で20人弱で、組織体制としてアポを取るインサイドセールス(以下IS)と、訪問し受注するアウトサイドセールス(以下OS)に分かれていた。

自分はまずISに所属することになった。そこから地獄のような毎日が始まった。1時間に25コール、これを昼の1時間の休憩を除いてぶっ通しでやる。

1日200コールくらいにおよぶ、それでも全員が電話に出てくれるわけではなく、そこからアポ獲得が数件だった。

始めの一か月は見習いで目標数値は追わなかったが、次の月から数値を背負うようになった。アポが全く取れない。

そこから毎日会社に行くのが嫌で嫌でたまらなかった。

このとき、毎日京大アメフト部のPVを見ながら自分を奮い立たせて出社していた。

そんな毎日が続いたある日、ISの先輩からこう言われた。

「筋トレ行ってこい」

オフィスにはジムがあった。
社員の福利厚生も兼ねて、ランニングマシンやスミス、ラットプルダウンのマシンなど一通りそろえてあった。

そして自分は業務中だったが、アポが取れなくなると、5分ほどジムへ行ってアームカールをしてから架電した。

すると、アポが取れた。
息が上がってしまい、電話の相手には気持ち悪く聞こえたかもしれないが、
いいですよと言ってくれる回数が増えるようになった。

実際には、トーク練習や先輩とのすり合わせ、サービスの理解、業界ごとのマーケティングの特色のインプットを行った成果が出たのだと思うが、
筋トレをすると元気になるのは間違いなかった。

そして、個人の月間のMAX目標を達成できるようになった。

2020年1月からOSとして活動開始。
初めてクライアントフェンシングすることになった。
ここには2か月所属したが、全く成果を残せなかった。

そして4月に入り、世間がコロナウイルスで騒がしくなり始め、
リモートワークが開始され、会社として急速な対応に追われた。

リモートで業務を継続していく中、1人になると色んなことを考えるようになった。今自分がやっている仕事の延長にあるものが、本当にやりたいことなのか疑問が湧いてきた。

会社員であるからには、仕事で成果を出すのは当然だ。
やりたい、やりたくないで自分の仕事を決めることはできない。
成果を出すために、業務時間外も時間を割いて成長するべきだ。
周りの同期は寝る間も惜しんで仕事をしていた。
元から付いていた差は1年経つとさらに開いていった。

自分ももっとやらなくてはいけない。頭では思うが、それでも、部活をしていたときのような夢中には程遠い状態だった。

贅沢な悩みだったのかもしれない。
幼稚な考えだったのかもしれない。
現実を全く見ていないだけだったのかもしれない。

そんな折、人事の方に相談したが、上記のような指摘を頂くことに。

しかし、自分の中の心のもやもやは解消できず、同じ会社でお世話になっていたアメフト部時代からの先輩に相談した上で退職することにした。

今振り返ると思考停止に陥っていた。なんとなく成長したい、いつかやりたいことができたときに実現できるようなビジネススキル・人脈を得たかった。ただ目の前の業務に一生懸命に取り組めば、それはいつか手に入ると思い込んでいた。そうして、ただただ作業をこなすだけになっていた。

このままでは変わらない。

思い切って環境を変えよう。

そう決めて、わずか1年と2カ月の会社員生活を終えた。

 

無職期間 四国遍路と筋トレ

・人生を見つめ直す四国遍路
・決断できない転職活動と筋トレの日々

5月29日に退社。無職生活が始まる。
とりあえず辞めたものの、特にしたいことがなく、ゆっくりと考える時間を作ろうと四国へ行き、歩き遍路をすることにした。

2020年6月~7月
6月10日、徳島から1200㎞の歩き遍路がスタートした。

約20㎏のリュックを背負い、毎日30㎞を歩いた。
当然無職なのでできるだけ費用を抑えたいので
49日間の内、40日はテントで野宿、市街地では安いホテルやゲストハウスなどに泊まった。

よく歩きながら何を考えるの?と聞かれるが、
一日の中でこんなことを考える。

朝出発して2、3時間は明るいことを考える。
将来何をしようか、こんな人間になりたい。
こんな家に住んで、こんな家族を持って、こんな生活がしたい。

そして、昼を過ぎたあたりで疲労が出てくると暗いことが頭をよぎる。

なんで自分はこんなことをしているんだろう。

周りの人たちは一生懸命働いているのに自分は四国の山を歩いている。
社会になんの貢献もできていない。
なんの親孝行もできていない。
将来の明るいことを妄想するだけで何も行動に移していない。
社会人1年目で仕事を辞めるのは人生にとってマイナスな選択ではなかったのか?
あのまま会社に残っていた方が良かったのでは?

そして夕方になると疲労で暗いことすら考えられなくなる。

とにかく疲れている。
今日は温泉までたどり着けるだろうか。
どこで野宿しようかなど、
その日のことで頭がいっぱいになる。

ずっと歩いていると足にまめができ、日焼けで腕がひりひりする。
山道を歩くと足はドロドロ、そんな状態で入るお風呂は
今までの人生で一番気持ちが良かった。

徳島から高知、愛媛、香川の山の中、海岸線、田んぼ道、市街地、ひたすらに歩いて色んな景色を見て、色んな人と出会った。

(写真:愛媛県石鎚山頂上にて)

次第に、明るいことも暗いことも考えなくなった。
ただただ歩いているのが楽しくなっていた。

お遍路を通して、人間として大切な何かを取り戻した気がした。

ちなみに、愛媛県に入るあたりから梅雨でほぼ毎日雨だったが、これはこれでいい思い出になっている。※お遍路に関してはまた別のnoteにまとめようと思う。(写真:お遍路49日目、高野山にて)

2020年8月~10月
最後に和歌山県の高野山へ登った後、2日間だけ大阪の実家へ戻った。

両親に顔を合わすのは久しぶりだった。
自分の進路に関して今まで一切干渉して来なかった両親。
このときもあれこれ言われることなく、
とにかくがんばれやと一言もらった。

去年1年間一切遊んでいなかったため、贅沢はできないもののしばらく生きていくお金はあった。
そして、もともと質素な生活には慣れており、
しばらくは大丈夫だろうと謎の安心感があった。

それでもコロナの影響で不況と言われるご時世、
できるだけ早く仕事を決めようと思っていた。

そして東京へ戻り、無職生活が続くことになる。

8月は、毎日近所の公園に行き上裸で日光浴をしながら本を読んでいた。
特に焦りはなかった。好きな時間に起きて、好きな時間に寝て、本当に自由に過ごしていた。

9月になると徐々に堕落していった。
企業の説明会へ参加したり、知人からの紹介など、転職活動をしていたもののイマイチ身が入っていなかった。

何の目的もなく一日が過ぎていく。

外出もせず、誰とも会わず、一人でいるとどんどん落ちていくのがわかった。

そして9月28日の日記には「生きる意味なんてあるのか?」と書いてある。

今までずっと部活をやってきて、
それなりにしんどいことは経験してきたつもりだ。
それでも精神がこれほどまで落ち込むことはなかった。

26年生きてきた中で一番自分のことが嫌いになった。

10月、落ちきっていた自分を変えるきっかけがあった。

転職活動以外に3か月毎日続けていることがある。
筋トレとウォーキング。

身体を動かしていないとマイナスなことばかり考えてしまう。
筋トレをしているときと外を歩いているときは無心になれた。

そして、たまたま後輩が勤める会社のオンラインセミナーに参加した。
そこは経営者にコーチングを行う企業で、代表の方が自書の内容をテーマに話をするというものだった。

そのときに「誰かにお願いされなくてもついやってしまうこと、とことんやってしまうことをやり続け、発信する」ということを聞いた。

そしてその日から筋トレ風景を撮影しInstagramとFacebookのストーリーズに「Everyday Workout」として、毎日投稿した。

最初の2週間くらいは、Twiceの音楽をBGMに筋トレをする様子を流すというシュールなもので、おそらく周りの人からは、気が狂ったのではと思われていたにちがいない。

そして、10月になり毎日の投稿も60日、70日目になった。

そんなタイミングで色々な方からDMが届くようになった。

「あの動画を見て俺も筋トレを再開した」

「あつしの投稿を見て元気をもらってる」

「いつも楽しみにしている。がんばれ。」

こんな自分でも誰かに影響を与えることができるというのは
衝撃だった。

ただただ自分が大好きなことを夢中になっている。
そしてそれが周りの人にいい影響を与える。

ただただ筋トレをしている自分でもこんな影響を与えられるんだったら、
自分の周りには仕事・研究・部活・趣味、様々なことに夢中になっている人がたくさんいる。

彼らの夢中をもっともっと世の中に知ってほしい。
そして、その姿を見た誰かが、新しい挑戦を始める。

そんなことを実現したい。

そのために自分がやることが2つ見えてきた。

1.自分自身が挑戦し続け、発信する

2.何かに挑戦したい人、夢中になっている人をサポートし、その人の進化を加速させる

そんなときたまたまGOAL-Bのパーソナルトレーナー募集を知った。
これは何かのチャンスだと思った。

大好きな筋トレで自ら挑戦し続け、
コーチングで挑戦をサポートし進化を加速させる。

フィットネスとコーチングという未知なる領域。

全くの未経験の自分が飛び込むのは怖さもあった。

それでも退職してから4ヵ月、いろいろな企業を見てきた。
どこへ行っても前職と同じような姿になるのをイメージしてしまう。

すぐに決断できなかったのは心のどこかで違和感があったからだ。

このままでいいのか?

GOAL-Bには自分が実現したいビジョンをこんなにも夢中になって創り上げようとしている人たちがいる。

そして、行動せずに止まっている自分に腹が立ってきた。

そして、すぐにこの自分自身の生き様noteを書き上げた。

その後、AKIOさんやGOAL-Bのメンバーに自分の想いを伝え、
GOAL-Bにジョインすることになった。

 

これからのビジョン かっこいい漢になり、人の挑戦を生む

・大切にしている考え方「かっこいい漢になる」
・人の挑戦を生む
・覚悟

自分が今後の人生を歩んでいく上で大事にしている考えがある。

「かっこいい漢になる」

これはアメフト部の元監督西村大介さんが新入生に毎年している話だ。
補足すると、男ではなく漢としているのは、性別関係なくかっこいい人間になるという意味である。

自分は今までいろんなかっこいい人と出会い、多大なる影響を受けてきた。
部活の後輩、同期、先輩、監督、講演に来てくださった経営者、会社の先輩等々、彼らはすべからく、元気で、熱く語り、子供のように夢中になり、いろんなことに挑戦する。

そして、周りの人を笑顔にし、そのひたむきな姿は見ている人に挑戦する勇気や感動を与える。

自分もそんな人になりたい。

そして、かっこいい漢があふれる世の中にしたい。

また、自分がそうなるだけでなく、自分の周りにいるかっこいい漢をもっと色んな人に知ってほしい。
そして、小中高生、未来ある若者たちが彼らに出会い、変わるきっかけを増やしたい。

自分は、浪人時代たまたま京大アメフト部のことを知り、
こんなに夢中になっているかっこいい人になりたい。と心の底から思えた。

そして京大受験という挑戦をした。

そして挑戦の結果、様々な経験と本音で語れる仲間を得た。

自分はたまたまアメフトだったが、世の中には色んな挑戦をして、
夢中になっている人がいる。そしてそんな人たちがもっと増えれば世の中はもっといい方向に進むと本気で思っている。

そして僕は残りの人生、誰かの夢中が、新しい挑戦を生む世界を本気の本気の本気の本気でつくることに命を使うと決めた。

最後に

最後までお読み頂きありがとうございます。

色々と書きましたが、成し遂げたい世界から見れば、今の自分は未熟過ぎます。それでも、だからこそ、これからの日々が楽しみで仕方ない。


そういえば、京大アメフト部のトレーニングルームには「百錬剛」と書かれた掛け軸がある。当時は特に気に留めながったが、改めて意味を調べた。

『百錬剛』
〔語意〕
何度も鍛えあげられた強さ。
動じない意思。
〔解釈〕
人間は弱い生き物であり、時には弱さを見せることも必要であろう。
ただ甘えてばかりでは成長はない、目標に向かって鍛錬を積み重ね、挫折を味わいながら創り上げたものは人の心を動かす強さを秘めている。

僕は、百錬剛な人であふれる世の中にしたい。

 

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株式会社GOAL-B コーチング事業部所属。パーソナルコーチ。 1994年生まれ、大阪出身。京都大学卒業。大学在学中アメリカンフットボール部「ギャングスターズ」に所属、4回生時にはレギュラーとして関西一部リーグで関学、立命と戦う。チームとしては6年ぶりに関西大学に勝利し関西リーグ3位に輝く。卒業後、100億円の資金調達をしたSaas系スタートアップ企業に就職。同社で開発と営業を経験。 2020年5月に退職。退職後は2か月にわたる四国遍路を行い、自分の命の使い方を模索。「誰かの夢中が新しい挑戦を生む世界をつくる」を自らのヴィジョンにかかげ、GOAL-Bに10月からジョイン。精力的にコーチングを行う。