【寿司職人→パーソナルトレーナー→プロコーチ】本能のままに生きる | 安慶名健吾

はじめまして。安慶名健吾(アゲナケンゴ)です!

今日は自己紹介を兼ねましてこれまでの私の人生をまとめました。私の人生は一言に「思い立ったが吉日」
というものでした。なので人生のさまざまな選択を本能に任せていろんな方向に突っ走ってきました。

そんな生き方をしてきたので、家族や友人には「やりたい事ははなんだ?」「結局なにがしたいんだ?」なんて言われる事もあり、1つのことを続ける事ができない、飽きっぽい自分の性格を恨んだりした時期もありました。そんな私でしたが今は胸を張って、「新しい事を始める事」そのものがやりたい事だと言えます。

せっかくの1度きりの人生なんでやりたい事をやりまくりましょう。そんな私のこれまでの人生を振り返っていきたいと思います。

1992年4月28日沖縄に生まれる。

(安慶名健吾 2歳)
とにかく暴れん坊で手のかかる男の子でした。
あまりにも暴れるので、おばぁから「ヤーチュー」という、沖縄古来のお仕置きを受けます。それはロウソクのロウを体に垂らすという沖縄古来のお仕置き。「悪いことするとヤーチューするよぉ〜」と襲ってくるおばぁ。ロウソクから滴るロウはすごく熱い。ものすんごく熱い。とにかくやんちゃな男の子でした。

小学生時代

(安慶名健吾 小学4年生)
まさにジャイアンのような存在でした。体も大きく、力も強かった。力加減がわからず友達を怖がらせてばかりいました。小学生にして身長170cmオーバー。体力測定のソフトボール投げは60mが測定範囲なのですが、いつも余裕の測定不能でした。その恵まれた体のお陰で野球部ではエースで4番でした。

中学生時代

中学生時代を振り返ってみて1番に思い出すのは夏限定の陸上練習。それくらい部活の印象が強いです。目立ちたがりで、生徒会長なども務めて野球部ではキャプテンでした。

部活では1年の時からレギュラーでした。一見、悩みなんてない元気いっぱいの少年のようですが、1つだけ悩んでいた事がありました。それは部員達の部活動に対する姿勢でした。「一生懸命頑張っている奴=ダサい」という雰囲気が漂っていていました。おそらく部活動では私1人浮いていましたが、「何かに一生懸命没頭できる人はかっこいい!」と思っていたので、一人黙々とトレーニングを続けていました。コツコツと自主練を続けていた結果、高校から推薦入学のお誘いをいただくことができました。校長室に呼ばれ校長先生、高校の監督、中学の監督と私で正式な推薦入学の話を受けました。
コツコツ努力を続けていれば誰か見てくれている、頑張ってよかった。本当によかったと帰り道ににニヤニヤしながら帰ったのを覚えています。

とても嬉しかったですが、実は進路を悩んでいました。
当時「あひるの空」というバスケ漫画が大好きで、バスケに興味関心向いていました。バスケットというスポーツ事態もそうですが、新しい環境、新しいスポーツを始めている自分を想像すると楽しみでしかたありませんでした。

なので監督、コーチにバスケしたい旨を伝えて、お誘いをお断りすることにしました。しかし田舎の社会は狭く先生や友達、地域の人から、「せっかく続けてきたから、野球を続けた方がいい」「高校から新しいスポーツだと活躍できない」などたくさんのアドバイスをもらいました。でも当時の私にとって楽しそうなのは圧倒的にバスケット。せっかく熱中なれて、楽しそうなものがあるのにチャレンジしない方が損と思っていたので、正式に推薦はお断りしました。その勢いのまま妥協なく部活動に取り組みたいと思い、県内の強豪校を調べ、進学先を決定。新しく始まるバスケットボール部員としての高校生活を楽しみにしていました。

中学3年生の時、バスケの他に熱中していたものがもう1つありました。それは邦楽ロックです。「何でもいいから楽器をやってみたい!」とある日授業中に思いつき、チャイムが鳴ると同時にそのまま職員室に向かい、吹奏楽部の顧問を見つけて吹奏楽部に即入部。楽器は何かやりたいのはある?と聞かれ「かっこいいからサックスがやりたい!」と元気いっぱいに答えました。部員は女子40人に対して男子1人。完全に場違い感はありましたが男女問わず仲良くできたので中学生活の残りの半年は吹奏楽部として楽しく過ごすことができました。周りの大人や先生、友達から「なんで吹奏楽部に入ったの?」と聞かれました。答えはもちろんワクワクしたから。楽しそうだったからそれだけです。そうなったら次にやりたいのはもちろん・・

バンドを組むこと!

野球部より、バスケ部よりもバンドを組むことが
もっとも私をワクワクさせてくれました。そうなったら本能のまま動くのが安慶名健吾。そこから進路は急展開。高校はバンドを組むために軽音学部がある高校に進学しました。

高校生時代

2008年4月
高校に入学。いよいよ念願の軽音楽部に入部。同じタイミングで入部した3人とバンドを組みました。しかし部室が使えるのが少なく、余った時間に入れそうな運動部にも入っちゃえと考えます。楽しくワイワイした雰囲気のバレー部が目に入り、掛け持ちできそうなバレー部にも入部しました。

はじめは部活を掛け持ちしていたのですが、だんだんとバレーの方が楽しくなってきました。もともと体も大きく運動の方がもともと得意だったのバレーがもっと上手くなりたい!という思いが勝ち、バレー部の方に専念することにしました。

試合にも出られるようになってきたとき、同じ高校のバスケ部が県内で優勝候補にあたるチーム勝ったという話を聞きました。正直うちのバスケ部はそんなに強いチームではないと思っていたので驚きました。聞くとバスケ部は監督が変わりガラッと変化したらしく、鬼のようにコートを走り回り、コートが使えない日もめちゃくちゃに外練を頑張っていました。そんなバスケ部の姿と活躍をみて素直にめちゃくちゃカッコいいな!!と胸が熱くなりました。その気持ちと同時にこのままゆるく部活動を続けていたら卒業するときに後悔する未来が見えた気がしました。

絶対に後悔する。それは嫌だ。

と強く思い3年生の先輩が卒業したタイミミングで部員全員を多目的室に集めて、バスケ部の快挙の話から、その時思っている私の素直な気持ちを話しました。

中学生の時は一人よがりだったのですが、その時は素直に思っている気持ちを伝える事が出来ました。決意を宣言することで私の行動も変わっていきした。監督が試合にしか来ない部活だったので選手をしながら練習メニューの作成なども行い、コーチ業務も兼任。部員の半分以上が初心者の部活でしたが、みんな一生懸命についてきてくれました。意思をみんなで共有していたので目標に向かって一緒に歩いている感覚もありました。ビジョンを仲間で共有してコツコツ練習を続けていると、成果もついてくるもので、もともと弱小バレー部だったチームは15年ぶりに1部リーグに昇格を果たす事ができました。


そんな充実したバレー部も3年の夏で卒業し、、

進路選択の時期です。将来については大学にいって県内で就職するだろうと考えていました。そのとき進路の先生から人生のほとんど時間は仕事をすることになるんだよ?」と言われハッとしました。そこからやりたい事はなんだろう?と意識しながら学校生活を過ごすようになりました。父がもともとフレンチのシェフという影響もあって料理するの面白そう、そしてかっこいい!という簡単な理由だったのですが、進路は大阪の調理師専門学校にいくことに決めました。

調理師専門学校時代

2011年4月
大阪に着いた日のことをよく覚えています。あたりはすでに真っ暗。沖縄から離れて初めての一人暮らし。部屋にはテレビもなく、テーブルもなく、カーテンもなく八畳くらいの部屋に布団一枚だけ。まさに「ポツーン」。前日まで家族と暮らしていた状態から、いきなりの一人ぼっち。心がとてもソワソワしたのを覚えています。
そして心の底から言葉が込み上げてきました、

「やべぇ。すげぇ楽しい。ドキドキする」

これから始まる大阪生活を想像して、楽しくてたまらない気持ちになりました。思い描いていた事は、

「男なら大きな挑戦がしたい!!海外に行きたい!」

なので入学してすぐにいろんな先生に海外で働くためにはどうしたらいいか聞いてみました。すると当時の私にとっては意外だったのですが、和食、特にお寿司がおすすめと教えてくれました。なので私は進路を和食そして寿司屋になることを決めました。

そして「寿司屋で働きたい」と周りに言いまくり、知り合いの紹介で大阪梅田にある寿司屋でアルバイトをさせてもらうことになり、タイミングもよくそのままそのお店で就職することになりました。

大阪寿司屋時代

2013年4月
念願の寿司屋に就職したはいいものの、労働環境が控えに言っても黒。漆黒でした。業務時間は9〜23時で休みは週1日。そして年に2回しか2連休がありませんでした。

ですがメリットもありました(超ポジティブ)。
入社したタイミングで人手が足りなかったのですぐに寿司を握らせてもらうことができました。

(寿司屋時代)

劣悪な労働環境下でとにかく働きました。40連勤したこともありました。ですが海外で働いている自分の姿を想像すると、自然と頑張れました。「どこかでつながるといいな」と思いつつお客様や知り合いに海外で働きたい事を話しまくっていました。

するとある日、知り合いの紹介で「シンガポールで寿司屋をオープンさせたいオーナーが職人を探している!」というLINEが飛び込んできました。願ってもいないチャンスがきました。しかし、即断即決で生きてきた私ですがとても悩みました。

いや・・今思えばあれは悩んでいたフリでした。

「行きます!お話聞かせてください!」

2分後に返事をしました。

そして行くと決断してからとある疑問が生まれました。

「てかそもそもシンガポールってどこだ?」

「何語を話すの?」

シンガポールについて何も知りませんでしたが、私の感情は海外で働けるチャンスに興奮していて、あまりそれ以外のことを考えずに返事をしていました。

どんな国なんだろうか?
どんな人がいるのだろか?
どんな出会いがあるのだろうか?

シンガポールに行ってみて住んでみて、働いてみて、いろんなもの見て、体験して、自分はどんな気持ちになるのだろうか?現状からは想像もできないような未来世界の自分に、毎日ワクワクしながら日々を過ごしていました。

シンガポール時代 前半

2015年3月
シンガポールに渡星して半年後、私は鉄板焼き職人としてカウンターに立っていました。

寿司屋と鉄板焼きをオープンさせたいオーナーを紹介してもらい、寿司屋として働く為にシンガポールに飛びました。もともと2つのレストランをオープンさせる予定が寿司屋のテナントの方が契約の都合により破断に。
そして私はそのまま鉄板焼きレストランで働くことになりましたが、「海外で働けてるし、まぁいいか!」と新しい料理を学べる事も相まって結果楽しく仕事をしていました。

(鉄板懐石 皐月 タンジョンパガー店)

23歳の私にとってシンガポールは超がつくほど刺激的でした。

気候・街並み・文化。五感で感じるもの全てが新しく刺激的でした。用意してもらった社宅もすごく綺麗で、週末は積極的に外に出かけていました。BBQやパーティに参加したり、スポーツをしたり、日本人もたくさんいたので「92会」と言う1992年生まれの会なども発足したりしまいた。とにかく飲んで、歌って、騒いでを繰り返し、プライベートの面は思い描いていたイメージを遥かに上回るくらいほど楽しかったです。

(住んでいた家からの景色)

(日本人ソフトボール会)

(本当にお世話になった家。めちゃくちゃに楽しかった。)

(あげちゃん主催の寿司パーティ)

(日本人92年会BBQ大会 チーム戦によるゲーム大会)

(マリーナベイサンズ インフィニティプール)

充実したシンガポールライフを思う存分満喫している中で私は、一人の女性に一目惚れします。これが恋だと思った瞬間「告白しよう!」と決めました。

当時の安慶名健吾が考えられる史上最高なプランで、、、

サブストーリー 〜全力告白〜

強い日差しが差し込む高層ビルの中を健吾はピンと背筋を伸ばして歩いていました。

両手に真っ赤な花束を抱えて。

向かった先はスイスホテル。シティホールにそびえ立つ5つ星のホテルです。高層用エレベーターで向かうは Sky bar 。押したボタンは LEVEL 70 。Skyの名に恥じないご機嫌な高さ、ロケーション。

(Swissotel The Stamford, Singapore)

待ち合わせ時間ぴったり。から1時間半前にバーに到着。受付のチャイナ服のウエイターに花束を預け窓際の席に座り一息つきました。「おっとおっと。俺とした事が少し早く着きすぎたかな?景気づけに1杯飲むか。」景気づけにビールを7杯飲んでました。アルコールが入ってないんじゃないか?と思いました。

(「ありたい理想の自分」と「慣れない環境にびっくりしている自分」のギャップに耐えられずビールをゴックンゴックン飲む)

私が席に座り、1時間半ほど経ったころ彼女が登場。時刻はPM6:00。いい感じで夕日が窓に差し込んでいました。

(ひたすらにまぶしかったー)

話は盛り上がり、気がつけばディナータイム。ライブパフォーマンスも始まり、脳内は「告白」「告白」「告白」緊張感は最高潮に達していました。

(いよいよ展開はクライマックス!)

席を外しチャイナドレスの女性を探しました。花束を受け取り、彼女の元へ向かいます。身を乗り出して夜景を眺めている彼女の名前を呼び言いました、、、、、「僕が一番幸せにします。付き合ってください」思いつく限りの強い言葉を出来るだけシンプルにまとめたいと考え、一晩中考えて、この言葉にしました。彼女は驚いていて、状況を整理するのに時間がかかっている様子でした。少し沈黙したあとに、、

涙を流しながら、
笑顔で花束を受け取ってくれました

「1番幸せにします」に込めた想いは「どんな人よりも」という気持ちでした。シンガポールには本当にたくさんの出会あります。そのたくさんの出会いの中、24歳のから6つ上の女性を落とすためには、この先の人生を捧げるくらいの気持ちが必要だと思い限りの最高のプランを届けました。

(出会ってから約1ヶ月後の話でした。)

そこからは彼女と一緒に旅行に行ったりしながら、幸せなシンガポールライフを送っていました。

(オーストラリア パース グラビア風)

(モルディブ)

大好きな人と過ごすシンガポール生活はそれはそれは楽しくて仕方がありませんでした。

が、仕事がまったく面白くなくなっていました。

シンガポール時代 後半

仕事が辛いわけではありませんでしたが、はっきり言って楽しいものでもありませんでした。
プライベートはものすごく充実していたのですが、仕事は完全に「作業化」

いくら仕事だとしても楽しくないことをやり続ける事はどこか引っ掛かりがあり、何度も「プライベートは楽しくやれてるし」「続けていればなにかかわる」「今楽しくやれているし、仕事を変える事はリスクもある」と悩んでは自分を無理やり納得させることを繰り返していました。

しばらくそんな「作業」のような状態が続いていると、20代という大事な時間がどんどんと削られていっている感覚になり、自分の命が削られていくのを黙って見ているような気持ちに襲われました。

選んだ道を後悔したくはないので、料理の本を買って勉強してみたり、食べ歩きにいったりして料理を好きになる努力をしていましたが、全然効果はありませんでした。プライベートでBBQをしたり、寿司を握るのは大好きなのでしたが、仕事になると完全に反復作業。「仕事はそうゆうもん」と思う人はいるかもしれませんが私はそう思えませんでした。25歳でプライベートを最高にする事ができたのだから、あとは仕事さえ楽しくできたら人生の全ての時間がたのしくなる!もっと人生を刺激的に過ごしたい。そこから「人生の全ての時間を楽しく生きる」ことを自分の中で決意し、仕事を辞めることを決断しました。

転職活動時代

2017年9月

私はシンガポールを離れ日本に帰り
RIZAPのトレーナーになることを決めました

根拠はなかったのですが自身がありました。筋トレはほとんど未経験。ジムに通った事もありませんでした。ですがトレーナーとして楽しくやれている自分が想像できました。料理そのものは好きになりきる事はできませんでしたが、「人と関わる事」は大好きだし、もっと深く人に関わる仕事がしたいと思っていた私にとって、お客様にどこまでもお節介できそうなRIZAPのトレーナーは私にピッタリだと思っていました。

当時、彼女と付き合ったばかりだったので、身を切るような思いでしたが、将来の事を考えた時に、現状に居座り続ける事の方が、チャレンジしないより大きなリスクになると感じました。それに2人の将来のためにする自信と覚悟があったので彼女を残して先に日本に決断をしました。目標があればトントンと事は進み、帰国後にすぐ面接を終え入社が決定。

2018年5月。研修施設がある東京杉並区へ向かいました。

RIZAPアカデミー

2018年5月
RIZAPへの就職が決まり研修期間に入りました。異業種からの転職でトレーニングの知識に乏しい私にとって、研修期間はものすごくハードなものになりました。特に実技のテストは本当に厳しかったです。次々と合格をもらう同期の中、私はなかなか合格をもらう事ができませんでした。今ままでにない独特の雰囲気の緊張感のせいもあり、結局私は同期で一番最後の合格者となりました。正直死ぬほど悔しかったです。気合十分で入社しましたが完全に空回りの状態。実技のテストになるとミスばかりしてしまっていました。それも本当に初歩的なものばかり。「テストが苦手なだけ。合格さえもらえればこの中で誰よりも成果を上げられる」と心の中で毎日何度も唱えていました。ですが配属さえされたら自分は誰よりも結果を出せる信じていました。なので店舗に配属になったら誰よりも行動して誰よりもはっきりわかる結果を出してやろうと心に決めていました。
苦戦はしましたが、本当に優しく人間力に溢れる同期たちに支えられてなんとか合格をいただく事ができました。研修最後の日はみんなで円になりそれぞれの思いを話したのですが、大きなプレッシャーから解放された安堵感もあり、みんなで涙しながら今後の決意、思いを語り合い、日本全国にある店舗へと旅立っていきました。

RIZAPトレーナー時代 前半

2019年10月

トレーナーとしてデビューして約1年後。私は同期最速でトレーナーとしては最上位の役職にあたるアドバンスドチーフトレーナーに昇格しました。

私がゲストの為に使った「行動量」は日本一だったと思います。それくらい「行動力」には自信がありました。要領が悪い事は自分で理解していたので、ゲストへの強い気持ちで結果を出すと決めていました。トレーナーとしてスキルや経験が足りない事も理解していたので、ゲストが思っている金額に対する期待や成果そして満足感を満たすためにはなにができるかを考えた結果「自分の時間を可能な限り使うこと」を選び実践しました。

とにかくひたすらにゲストのことを考え、帰宅後は夕食を食べながらトレーニング、食事の勉強。休みの日も関係なしにゲストへの資料作りから、カルテチェック、食事チェック、メニューの見直し。

「ゲストが期待する結果をはっきりと出す」
「圧倒的にゲストに寄り添う」

この2つに注力して、体力の限り、それらを泥臭く続けました。半期評価の際の自由欄には「日本一ゲストの為に時間を使います」とびっしりの決意の文章と共に書き込み、日本一泥臭くもてる全てを大事なゲストの為に捧げました。プライベートの時間を、仕事に使う事に関して賛否はあるかと思いますが、当時はどうしてもはっきりとわかる結果が欲しかったですし、シンガポールに残した彼女の事もあったのでめちゃくちゃに働いていました。

そんな2年間のトレーナー生活の中で今でも誇りに持てる事、自慢できる事があります。それは「セッション96回」を2年半で合計3回のご契約いただけた事です。「セッション96回契約」とは、週2回のトレーニングで計算すると丸々1年間になり、RIZAPで契約することのできる最長のプランになり、金額は¥1,200,000を超えます。この契約をいただくためには信頼関係、トレーニングの質などはもちろんのこと、トレーニング以外の要素も必要とされます。いろんな要素がありますがその中でも
私がゲストに対して1番大切にしていた想いは「ゲストの人生に覚悟を待って接する」という事でした。その「ゲストの人生に覚悟を待って接する」事の重要性を、このご契約をいただくことで学ばせてもらいました。

それは初めて私が96回のセッション契約をいただいた時の話です。その方は60代男性。入会時に減量の為、3ヶ月契約で入会。その後プラスして2ヶ月間の再契約をいただき、体の維持をする指導を行なった後の3回目の再契約でした。「1年間。安慶名健吾と一緒にトレーニングしたい!!」と思ってもらえるすべてのメリットを考え、念入りに準備をしていました。

トレーニングが終わりカウンセリングルームにご案内。これまでの歩み、そしてこれからどんな人生にしていきたいのか?その為にどんなトレーニングが必要なのかを2人で真剣に、時には笑顔を交えながらこれからの未来のついて話し合いました。そして、「これが私がRIZAPで提供する事ができる最高のプランです」とご提案しました。「この金額なら安い車なら買えそうだねぇ」とゲストは提示した見積書を笑いながらみていました。私は「であれば車よりも価値のある、車よりも使用頻度の高い一生物の「最高級の体」を一緒に作りましょう。車を買うよりも価値があるものを提供できる自信が私にはあります。是非一緒に1年間トレーニング行っていきましょう。」とクロージングしました。事前準備したものはいろいろあったんですが、結局私は提案材料として自分自身の覚悟と自信を提示しました。するとゲストは改まった表情で「それでは1年間よろしくお願いします」と私と過ごす1年間に契約を結んでくれました。

ご契約いただいた瞬間に、今までに経験したことのない感情が一瞬で体全体を巡りました。一瞬すごく嬉しくなったのですが、不思議と嬉しさの感情が一瞬で消え去り、なんだか体が冷たくなるような感覚に襲われて体がゾクゾクしました。契約をいただいた後に、1年間、毎週2回のセッションでその人を満足させ続けなければならないというプレッシャーで一瞬ものすごく怖くなったのです。でも怖いなりに1年間満足させる覚悟だけはありました。その契約を通して、トレーナー、対人支援のプロとして生きていく上で核となる「お客様の人生に覚悟を持つ」という部分が形成されました。その覚悟を持って1年間パーソナルトレーニングを続けました。パーソナルトレーナーとして私の価値、覚悟を全てぶつけました。

1年後私はその方から再び96回の契約をいただく事ができました。私のトレーナー人生で1番誇り高い出来事になりました。

RIZAPトレーナー時代 後半

2020年5月
入社から2年が経ちました。仕事には充実感があり、会社からも評価していただき、プライベートも充実感を感じていました。

でも、どこか物足りなさを感じ初めていました。求めていた状態に近いけど、もっともっと自分がチャレンジ、成長、活躍出来るフィールドがあるのではないかと考えるようになりました。RIZAP に入社した頃は早く仕事を安定化したいと思っていたのに、安定してしまうと、途端に物足りなさを感じていました。ただ物足りなさは感じるものの、ゲストを最大で42人同時に担当していて、それなりに活躍させてもらえていたので、特に深く考えずにお客さんに向き合い続けていました。そんなある日、、世界中を巻き込む事態がおきます。2020年4月新型コロナの影響により東京都に緊急事態宣言が発令されました。その影響で東京都のRIZAPは全店舗、営業停止となりました。初めはとても楽観的でした。時間ができたので普段出来なかった勉強をして、自粛期間を使ってトレーナーとしてめちゃくちゃ成長してやろうと考えていました。

そんなある日YouTubeを見ているとGOAL-Bの「レッツゴーなぎらの社長いじり動画」がオススメにでてきました。社長のAKIOBLOGは知っていましたが、レッツゴーなぎらが誰なのか全くわからないまま動画みて爆笑しました。

なんだこの人は?なんで社長をいじってyoutubeにアップしてるんだ?なんて発想なんだ!

と彼の虜となりyoutubeの概要欄から即彼のサービスを購入することにしました。サービスは自宅で行うオンライントレーニング。トレーナーとして働いている俺がオンライントレーニング受けてどうなるんだろう?と一瞬思ったんですが、彼と関わりすぎたくてサービスを受けることになりました。ちょうどGOAL-B主催で「ボディメイクバトル」というイベントをやるということなのでそちらにも参加することになりGOAL-Bと徐々に繋がりができてきました。

たまたま自粛期間中にGOAL-B代表のAKIOBLOGのコーチングの記事を読んでいて、コーチという職業の中に、私の理想的なトレーナー像を感じていました。コーチングというものを受けたくなり、トレーナー兼コーチでもあるレッツゴーなぎらにコーチングをお願いしました。そこからコーチングというものを学び「私がトレーナーとして提供しているものと近い」と再認識。私が2年間手探りでゲストに提供していた、言葉にしにくい「気持ち」や「考え方」の部分が「認知科学」という名称で論理的に言語化されていたように感じました。そしてコーチングを受けている途中でコーチングをトレーニングと組み合わせれば、まだ存在しない新しい何かになれるんじゃないのか?そしてそんな存在になってみたい!と強く感じました。トレーナーとして、だけどトレーナーに縛られず、人の人生の目標を叶えてられるそんな存在。ずっと理想としていたトレーナーとしての理想型が見えた気がしました。

そしてトレーナーとコーチが融合した、今はまだ名前のない存在になるためにRIZAPの退職を決断しました。

退職を決断 GOAL-Bへ

2020年6月

ゲストに恵まれ、会社からも評価してもらい、恵まれた環境だと胸を張って思える中、私はその環境を去ることを決断しました。人生の全ての時間を、もっともっと楽しむため。もっともっと、成長できる。トレーナーとしての進化を自分に起こせる。この思いを実現させるために私が次に選んだステージがGOAL-B という会社でした。現在コーチング事業部とフィットネス事業部がある会社です。

そんなGOAL-Bの理念は「全ての人に可能性がある」
私はこれまで人との関わりを通して体だけでなく人生の変化も作ってきました。GOAL-Bの一員として、トレーナーを超えた存在、よりパワーアップした私を通して人の進化•成長をつくっていけると確信しています。そして、私自身の進化もGOAL-Bの中で作っていきます。全ての人に可能性がある と熱い理念からも分かる通りに代表も熱い男です。入社前のある日、こんなLINEが届きました。

こんなに人生をワクワクさせてくれる会社がありますか。このLINEで気持ちがブチ上がりました。もはや私の人生の為にGOAL-Bが存在しているじゃないか?と思えるくらい、この展開に運命を感じ、気持ちが熱くなり、鼓動が高鳴りました。



最後になりますが

全ての時間が自分の人生です。

私は「トレーナー」として、「安慶名健吾」として

誰よりも自分の人生を楽しんで生きます。




私は人生すべての時間を最高に楽しんで生きていきます。



最後までお読みいただきありがとうございました!


■追記

2021/1/15
安慶名健吾はフィットネス事業部からコーチング事業部に籍を移し、プロコーチとしてデビューしました。GOAL-Bで成長を続けております!いつも応援ありがとうございます!


2021/10/1
コーチング事業部責任者となりました。入社当時から想像もできない現状を最高に楽しめています。コーチとしてアナタにお会いできることを心より楽しみにしております。

 

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コーチング事業部 コーチング事業責任者 大阪梅田にて板前として2年半勤め、新規レストラン立ち上げのためシンガポールへ渡星。その後帰国し、株式会社RIZAPへ入社。パーソナルトレーナーの最上位役職にあたる「アドバンスドチーフトレーナー」を最速の1年で表彰。2020年、株式会社GOAL-Bへ入社。「トレーニングジムGOAL-B」立ち上げ。その後2021年1月にコーチング事業部パーソナルコーチへ。2021年現在、コーチング事業責任者就任。経営者支援コミュニティ「ASHIBINA」を運営。