初めまして、株式会社GOAL-B管理部所属の岡中友美です。
2021年12月1日より正式にメンバーとなりました。
全く知識も経験もない職種へ転職するきっかけとなった経緯を中心に、今までの私の人生について書かせていただきました。
書いている間に思いのほか長くなってしまったので、
入社までの経緯をサクッと知りたい方は「大きく変化したきっかけ」から読んでいただけるとお時間取らせません。
幼少期
私は4人家族の二人姉弟の長女として北海道で育ちました。
小さい頃はあまり身体が丈夫ではなく、長期入院することもありました。
父は仕事が忙しく、母が入院に付き添ってくれていたので2歳下の弟にはかなり寂しい思いをさせてしまいました。
一度だけ「ヤマハ音楽教室に通いたいの!」と言ったことがあります。この頃から音楽に興味があったように思います。
小学生
〜身体を動かさない日はない活発な日々〜
休み時間は、女の子と室内で〇〇ごっこをして遊ぶよりも、男の子に混じって外で遊んでいる方が楽しい!という活発な子供でした。
学校から帰ってきても公園に遊びに行って暗くなるまで帰ってこない。それが当たり前でした。その影響もあってか、習い事は全て運動系でした。
最初は父の影響で卓球を始めます。週1回お楽しみ程度のチームから始めましたが、負けるのが悔しくて勝つためにチームを変更しました。
小学校4年生、友達に誘われて見学に行き、ミニバスも始めることになりました。
とても興味があったわけではなく、ただ友達がやるっていうから私もやってみようぐらいの気持ちです。上達する方法を考えることもなくただ闇雲にやっていたので正直あまりうまくなりませんでした。
同時期に弟がトランポリンを始めました。弟がやっているのに自分ができないのが悔しかったので、トランポリンも始めました。こちらも途中で大会に向けてトランポリンを中心に練習するチームに変わりました。競技人口が少ないため、チャンスは多かったです。
現時点で3つの習い事(しかも全部運動系)を掛け持ちし、毎日のように学校が終わったらバスケ、その後にトランポリンか卓球とスポーツ漬け。
パートをしながら毎日のように送り迎えとお弁当を用意してくれたのは母でした。
当時は辛いと思ったこともなかったし、それが普通の毎日だったので疑問を持つこともありませんでした。
ただ、今思えば異常な忙しさだったように感じます。この頃辛くならなかったのか?と母に一度聞いたことがありました。
「私も弟も辞めたいと言わずにやっていたからね!」
と一言。感謝しかありません。
記憶のほとんどはスポーツで、勉強した記憶はほぼありません。
小学生の時の印象的な出来事といえば、図工の時間に
「大きく描くんだよー!」
と言われて本当に大きく描いた秋刀魚が一人だけ鮭みたいになって、並べて飾られているのがとても恥ずかしかったことです。
中学生
〜人の求める答えや、その場の正解を探す〜
入学したのは、地元でも比較的大きな学校(と言っても田舎なのでひと学年は200人程度)でした。
学校生活・人間関係・部活に分けて書いていこうと思います。
-学校生活-
勉強はあまり得意な方ではありませんでした。今考えれば、
勉強の仕方を知らなかった
というほうが正しいです。特に国語は嫌いで、筆者の意図が全くわかりませんでした。文章に対する苦手意識が芽生えたのもこの頃です。
流石に焦りを感じたので、中学3年生の春初めて塾に通いました。
個人の塾なので厳しかったのですが、勉強するということを知りました。
この時が一番勉強を頑張ったと言っても過言ではありません。
(最近先生に会いましたが、たいして勉強していなかったよなと言われ少しショックでした。)
-人間関係-
人に嫌われたくないという気持ちが強かったです。いじめられたくない、嫌われたくないという気持ちから、
「私はこう思う」
「私はこうしたい」
という感情を抑え込むようになり、
「この返答を求めているだろう」
「この場はどう対処するのが正解だろう」
と考えるようになりました。
狭いコミュニティで生きている中学生の時の自分にとって、そこで排除されることを恐れていた記憶があります。
この頃のもう一つの大きな出会いは、歌とダンスでした。
天才テレビくんMAXの時代に木曜生ライブというコーナーがあって、Dream5やスマイレージに出会い、歌とダンスにとても興味を持ちました。
そこから同時期にデビューしていた、東京女子流というダンスアンドボーカルグループに出会います。
休日に東京女子流のUstreamを見ることを楽しみに毎日学校に行っていました。この頃から毎日歌って踊っていたように思います。
世間はAKBの全盛期で盛り上がっているところ、
私は東京女子流と、モーニング娘。をはじめとするハロープロジェクトの虜になりました。
生歌なのにかっこよく踊れることに対して、憧れにも似たような感情を持っていました。
-部活編-
音楽が好きだったので、吹奏楽部に興味がありました。
しかし、私は音楽未経験で楽譜も読めません。
新しいことに挑戦する恐怖が勝ってしまい、そのまま女子バスケットボール部に入部しました。
10人入部し、地区一番の強いミニバスからの子がほとんどでした。
中学校からはスタメン5人いれば試合ができるので、基本的には5人と交代要因で2.3人程度いれば回せます。
私は選ばれるわけもなく、ベンチを温め、声を出して応援、スタッツと呼ばれていたランニングスコアよりも細かいシュート率やリバウンド、ターンオーバーの回数まで記録するスコアをつけることが1番の特技でした。
そんな私ですが、もう一つだけ誰にも負けないと思うものがありました。それは
「体力」です。
体育館での練習後3Kmか5Km走るのが当たり前のチームでした。
3kmは12分で走り、2番手に校周1周差をつけることができました。とても嬉しかったのを覚えています。
練習試合をした際に一人だけ顧問に呼び出されたことがありました。
他校の監督から「この子を上手に使えばチームは強くなる」と言われたと伝えてくれました。
「期待している」
と言われたことが本当に心から嬉しかったです。当時チームは、試合のたびにユニフォームの番号が変更されていました。
頑張って認めてもらえれば番号が上がるのです。私は次の大会で番号を一つ上げてさあいよいよチャンスがあるかもしれない!という状況でした。
そんな時にある日突然、連日40℃を超える高熱が出る日が続きました。
原因不明、白血病も疑われていたことはのちに知った話ですが、療養と精査のために検査入院となりました。生検した結果は悪性腫瘍ではなく、亜急性壊死性リンパ節炎(菊池病)と診断されました。1週間程度の入院で済みましたが、大事な全道大会に参加することができませんでした。今となっては良き思い出ですが、チームで写真を撮ったパネルにはユニフォームだけが写っています。
退院してから練習に参加できるようになりましたが、それからというもの身体が思うように動きません。体力も落ちて普段できていたことができないのです。期待にも応えられず、すっかり自信を無くしました。案の定、次の大会ではユニフォームの番号は下がりました。
最後の大会で、チームは劇的な逆転で地区大会優勝を果たし全道大会まで進みました。
私は相変わらずベンチを温め、応援するという結果に終わりました。
それでも、メンバーと一緒に辛い練習を乗り越えたことは私にとって大切な思い出で、貴重な経験となりました。この練習のおかげで、精神は鍛えられ、大抵の辛いことは乗り越えることができると今も思っています。
また、メンバーと切磋琢磨することで成長できるということを学びました。
高校生
〜挑戦せずにbetterを選ぶ日々〜
-学校生活-
私の進学した高校は市内でも珍しく単位制をとっている高校だったので、1年生から進路の話を耳にタコができるほど聞きました。
早い段階で進路を決めて履修科目を決める必要がありました。
漠然と医療系かな〜と思っていました、理由は2つあります。
・病院が割と身近な場所だったから
・一人で生きられるから
4歳の頃の長期入院。なぜか、とび箱の着地で骨折した左腕は運悪く骨がズレて手術。原因不明の高熱で入院し、14歳なのに小児科サンタさんとクリスマス。
別に不幸自慢がしたいわけではなく、この経験を良くも悪くも私自身がさほど悲観的に捉えていなくて、苦い思い出として残っていません。
4歳の記憶はほとんどないけれど、骨折に関しては三角巾をして学校に行くのが何となく楽しかったし、手術に行く時も初めての経験に怖さと同じくらいのワクワクもありました。最後の小児科入院なんて、先生が時間を見つけては勉強を教えてくれたし、楽しかったんです。
最初は薬剤師なんて思っていましたが、学力不足はわかっていました。あまり人と話したくないし、検体と向き合っていたいからという理由で、臨床検査技師!と答えてみました。(※当時知らなかっただけで検査技師さんも検査の際に患者さんと関わるお仕事です。)
大学進学条件は学費が安いところ。北海道内の国公立で調べたら北大しかありませんでした。この時点で諦めました。
じゃあ、看護師かな〜と思って看護師を選び、センター試験の科目も少なくて済む北海道内の看護大学が見つかりそこを目指すことを決めました。
「先生、私心理学に興味があるんです。」
と一度だけ本当に興味のあることを口にしたことがあります。
「就職ないよ」
と言われて以降は何か間違っているような気持ちになってしまい、それ以降は全く口にせず蓋をしました。
一般受験から逃げたかった私は、北海道内の市立大学の推薦入試を受けましたが、不合格。原因は確実に小論文だとわかっていました。
試験の出発する前日に添削してもらった際には、
「もう受験やめたほうがいい」
と言われました。それくらい絶望的に小論文ができませんでした。この時さらに、文章に対する苦手意識が強固なものとなりました。
結果として、センター試験を受験し、二次試験に小論文のない群馬の県立大学を前期受験。面接のインパクトでもっていくしかないと言われ仕込まれていました。
「元気が一番、元気があればなんでもできる!」
と名言を満を辞して面接で投下。無事合格。
日本でも避暑地で有名な土地から当時の日本一暑い地域の群馬県への進学が決まりました。
これは余談ですが、この頃に密かな思いがありました。中学生の時からアイドルが好きで仕方なかった私はどうやったらアイドルに会えるか必死で考えていました。
部活の休憩中や休み時間も歌っているか踊っているかで、顧問には「ともみ〜、踊らなーい。」と注意され、友達には「歩くiPod」と言われていました。
-人間関係-
高校はまた人数が増えました。毎年クラス替えをする学校だったのでその度にクラスの雰囲気に馴染まなければ!と必死だったような気もします。あまり覚えていません。
ただ、単位制の高校でありクラスで行動するというよりは個人で履修するスタイルだったのでクラスで過ごすことはそう多くはありませんでした。
その時々で一緒にいる人は違ったかなと思います。
一人になりたくない気持ちがある一方、大勢の中に長時間いると色々なことが気になって疲弊するのも自分でなんとなくわかっていました。空き教室や人がいない場所を探しては、一人で勉強するのを好みました。
大勢の人がいる場所で一人になるのは怖かったので、他のクラスまで友達に会いに行くこともありました。
-部活-
高校では部活動の選択肢が割と広がっていました。
私はハンドボールか蝦夷太鼓に入りたかったです。ただ、バスケ部の見学に行ったらそのまま加入する流れになったので、高校でも部活はバスケに決まりました。
先輩がいる間は真面目に練習していましたが、中学校ほど全力で頑張ることはできませんでした。先輩の引退後は顧問と部員の衝突も多く、一番練習すべき夏休みに1週間部活が休みになったこともあります。
中学生以降身体が思うように動かなくなってから、自信のなさはプレーにも顕著に現れていました。私が攻めても止められるし、ボールを持ちたくない・・・と言う気持ちで、試合に出ることが怖かったです。
人数が少なかったので試合は出ていましたが、中学生の時ほどの面白さはありませんでした。試合も応援されているはずなのに、後輩や応援席からの声が気になって仕方がなかったです。私の場合は、万年気持ちの調子が悪かったように思います。全然コントロールできていませんでした。ある大事な試合の場面で
「今日は本当に調子が悪い、他のメンバーがベンチにいるし応援席からも罵倒が聞こえるような気がする・・・もう今は確実に私じゃない方がいい!」
と強く思いました。タイムアウトで交代かと思いきや特に指示はなかったため、
「私を変えてください!」
と言ったことがあります。顧問に意思を伝えたのは後にも先にもこれだけでした。「いや〜、ともみでいく〜」と言われ渋々コートに戻りましたが、そんな気持ちでいいプレーができるわけがありません。ベンチのメンバーにも本当に失礼だったと思います。その後3分もしないうちに交代になりました。
こんな部活の状況でもやっていて良かったと思うことがありました。
練習が休みになってしまった夏休みの1週間に、なんとなく頑張りきれていない私が嫌になって家の近くの川沿いをランニングしていました。
それを見かけた先生がいたようで「頑張っている奴もいるんだな」と言っていたと教えてくれました。この時に、
・見えないところで努力することは無駄ではないこと
・たとえ結果が出なくても人間として信頼を積み重ねることに繋がる
と学びました。そして、その信頼は自分が本当に困った時に助けてもらえることに繋がるということも。
大学生
〜初めて自由になってみて〜
小さな大学なので、ひと学年は他学部を合わせても120人程度。憧れのキャンパスライフとはかけ離れたものでした。
一人暮らしを始めて、今まで縛られていたものから一気に解放されました。
初めのうちこそ勉強したものの主体的に学習する力が求められる大学ではほとんど勉強しませんでした。単位が取れる程度に勉強して、バイトするか遊ぶ生活をしていました。一緒に卒業研究をしていた友人に、
「友美ちゃんって真面目そうで実は真面目じゃないよね」
と言われるぐらいだったので相当でした。
また、辛いことに耐える精神は中学校の部活で身につけていたし、世間がイメージするほど実習先の看護師さんも怖くなかったので実習はなんとか乗り切れました。国家試験前は流石に焦りを感じて、遅ればせながらも9月からしっかり勉強しました。
大学生の時は、全く違う環境から集まってきた人たちに出会うはじめての機会でした。地元の高校まで進学していたので、当たり前が全く違うことに驚かされました。良くも悪くも沢山刺激を受けました。
アルバイトは色々なことを経験しました。
・バンケットアシスタント
・コンビニ
・バル
・イベントスタッフ
エピソードがありすぎるので、その後の生き方に影響しているものを抜粋してお話しします。
バルでは「お前は目が死んでいる」と厳しくも愛を持って接してくれる店長から、お客様との接し方や表情の作り方を考える機会をもらいました。死んだ目の時でも、死んでないように見せるにはどうしたら良いだろう?本気で考えて、表情筋の動かし方を考えました。
一番面白く、学びが多かったのはイベントスタッフでした。
3年目の3月から夢中になって4年目の9月ぐらいまではずっとイベントスタッフをしていました。好きな音楽に関われる仕事だったし、大学の外に繋がりを持てたことも嬉しかったです。
ここで、初めて一緒に仕事をしたい!と思える人に出会いました。年下ですが、仕事に対して責任感があって常に向上心のある子です。
私は覚えが悪く、慣れるまでに相当時間がかかるタイプです。分からないことは全て聞きました。そんな私にも呆れず、
「聞いてくれることが嬉しい」
と言って丁寧に沢山のことを教えてくれました。彼女と一緒に仕事をすることが本当に楽しくて、関東圏から遠いときは新潟まで色々な現場に行きました。
炎天下のなかエアコンのないテントでチケットを売り続けたり、トラス(舞台を作るための部品)を走って運んで組み立てたり、どんな現場も彼女と行けば楽しくお仕事ができました。
この経験から一緒に仕事をしたいと思う人と働く!という考え方は定着したように思います。
ちなみに就活はほとんどしていません。立地と病院の綺麗さと直感で決めました。
看護師になってから
〜この世界で上手く生きていく方法を探して〜
1年目から2年目までは環境に慣れることに精一杯の日々でした。
私は器用ではないし、慣れるのも人より遅いタイプです。どうしても周りの同期には遅れをとってしまうし、慣れるまでは「なんでそんなの間違えるの?」というミスを繰り返してしまいます。
今は充分すぎるほどに仲が良いと先にお伝えしておきますが、当時は同期の仲も良くなくて、
「この世界で生きていくためには、自分の周りの環境を整えるしかない。」
そう思った私は、先輩にはもちろん、同期にも頭を下げて教えてもらう。周りになるべく敵を作らず、いつでも助けてもらえる環境作りに注力しました。ここでさらに、自分の意思ではなく相手が何を求めているのかを探すようになりました。
そして、相手の性格を見ながら声の掛け方を変えるという技術も身につけました。
「あの人は今こういう状況だから話しかけないほうがいい」
「この人はこういう性格だから、こういう伝え方をしたら気持ちよく仕事ができるだろう」
相手に合わせる技術の習得や、当たり障りないような関わりができるようになったこと。目立つ人が常に他にいたこと。などから、人間関係でのトラブルは最小限に抑えることができました。「おかちゅー」という愛称のおかげもあって、割とこの世界で上手く生きていくことができたと思っています。
大きく変化したきっかけ
〜私を成長させるのはいつも悔しさだった〜
きっかけは大きく2つあります。
1つ目は、急変
2つ目は、別れ
しんどいことが重なる時って、とことん重なるじゃないですか。
1つ目、急変
個人情報なので詳細にお伝えはできませんが、今後一生忘れないであろう急変を経験しました。
それまでも何度か経験することはありましたが、その時は色々条件が違いました。
できる限りのことはもちろんしましたし、受け持ち(その日の担当)が私でなければ結果が変わったという話でもありませんでした。それでも、当事者にしかわからない「無力感」と「悔しさ」に襲われました。唯一、最初から最後まで一緒に対応した先生に言われた、
「受け持ちがおかちゅーでよかったよ」
の一言が、その当時の私を支えてくれました。感謝しかありません。
この経験から、
「死はいつ訪れるかわからないから、生きている時間は大切にする必要がある」
と強く感じました。このままの仕事への向き合い方や、生き方ではいけないと改めて思いました。
2つ目、別れ
急変の裏で私にはもう一つ大きな問題が起こっていました。
当時、お付き合いしていた彼との別れでした。
このことについては書くかどうか悩みましたが、GOAL-Bとの出会いや私の変化を伝えるためには必要な内容だったのでここでお話します。
別れて一通り衝撃受容過程を辿ったのち、最後に残った感情が「悔しさ」でした。
それは一つの疑問から始まりました。
「彼のように人生が毎日最高で楽しい人がいるのに、なぜ私は毎日しんどい思いをして生きているのだろう?」
え、この違いって何?と純粋に思いました。そして、
「私がこんなに毎日しんどい思いして生きてるのって悔しいな。」
と思いました。
急変と別れで「悔しさ」が大渋滞。
絶対に変わってやると心に決めました。
そこからやったこと
〜行動あるのみだと思って〜
変わってやる!と心に決めたものの、私が何をしたらいいのか、何がしたいのかわかりませんでした。
とりあえず、彼がいつも言っていた「AKIOBLOG」という人を見てみよう。
「最高の1日にします!」から毎朝始まる彼の生活に衝撃を受けました。
気になったことは調べ尽くすタイプなので、UPされている全ての動画に目を通して、GOAL-Bという会社とメンバーの存在を知りました。
なぎらさんのYoutubeで、
「社長、やりたいことがわかりません」
に対して、AKIOさんの
「挑戦の数が足りん」
がとても腑に落ちました。
「あーだこーだいって始めていなかったことをやろう」
「全力でやっていないのに言い訳ばかりするのをやめよう」
やりたいと思っていたことをノートに100個書き出して、できることから一個ずつ始めました。
・カメラ
・バスケ
・沢山の人に会うこと
・本を読むこと
・心不全療養指導士の取得
・BLS・ACLSの取得
趣味も仕事もやりたいと思ったことをとことんやりました。「悔しい」という感情はいつも私の原動力でした。
また、発する言葉もポジティブに変換するようにして、意図的にネガティブな言葉を発さないようにしました。
「どうしてそんなに生き急いでるの?」
と言われることもありましたが、これ以上悔しい思いをするのはもう嫌でした。
しかし私は、自分の限界がわかっていませんでした。
かなり無理をしたことが原因で2020年11月頭に体調を崩しました。亜急性壊死性リンパ節炎の再発でした。
今までは入院したり、春休み中だったりと安静にできましたが、不規則な勤務形態で仕事をしていたのでなかなか治りませんでした。
みんな大変だけど働いているし、仕事に行くからには具合が悪いという素振りは見せたくない。と頑張っていましたが、正直限界でした。
今まで出来ていたことが、出来ない。薬が切れると動けない。
一時は休みの日もベッドから天気がいい空を眺めることしかできないところまで悪化して、このまま治らないかもしれないとまで思いました。
今までの私ならそこで悲観的になって終わりでしたが、絶対に変わってやると決めていたので、ここでくたばってたまるか!という気持ちでした。その状況でもできること続けました。
身体的な健康が損なわれると、精神的にも健康でいられなくなります。
「プシコ(医療略語で精神疾患患者)」と言われたことは忘れることもないと思います。
健康第一ということを身をもって知りました。ここで当時の職場を退職する意思を強固なものとしました。
ちなみにしっかり動けるようになるまでには、半年かかりました。そんな状況でも、
・資格取得のために症例を添削してくださった先生
・辛い時にシフトを調整してくれた病棟のメンバー
・動けない時に大量の差し入れを持ってきてくれる同期
先生方や病棟の同僚が本気で心配して支えてくれました。本当に私は周りの環境に恵まれたと心から感謝しました。
看護師という仕事や前の職場は、結論好きでした。
私が面白さを感じたのは、病態や治療。効率的な動きとスムーズな連携です。
薬を変更してどうなのか?呼吸器設定はこれで患者さんにとってベストなのか?それで水の量は?電解質バランスは?意識レベルは?とアセスメントして、なぜ?どうして?を考えることが好きでした。
回診で気になることを報告し、その後記載されるカルテの治療方針に反映されていた時は本当に嬉しかったです。そして、略語だらけのカルテを解読していくことも面白くて仕方ありませんでした。
業務的な部分をいかに早く終わらせて、データや患者さんの状態をみるのかそればかりを考えていたように思います。
それ以外にも、リハビリスタッフとリハビリの状態や普段の状態を共有して患者さんの安静度を変更したり、ソーシャルワーカーさんと転院の話を進めたり、コメディカルスタッフとスムーズに連携できたときはとても楽しかったです。
上記で話したことは本来、出来て当たり前の事です。慣れるまでに時間がかかる私だったので、看護に面白さを感じるようになったのは3年目の夏頃からでした。
職種や年齢関係なく、気さくに話してくださる方が多かった職場だったので、退職の時はかなり寂しかったです。
どうやってGOAL-Bで働くことになったのか
〜なんとなくコメントすることから始まって〜
いち視聴者であった私が、どうやってGOAL-Bで働くことになったのか。
結論から言えば、遼さんのInstagramです。
先程のような状態であった私が、夜ふとInstagramを開いたら遼さんがルックアップ細井さんとインスタライブをしていました。閉館後のジムからの配信。視聴者7人。
「コメントください!!」
と視聴者7人に向けて、二人が全力でした。
流石にその人数だと、自分に声をかけられているようで、そして何よりかわいそうで・・・笑
一言コメントしたのがきっかけでした。その後、遼さんが「一度、お話ししませんか?」私にDMをくれました。
「せっかく話すなら名古屋まで行きます!」
と連絡して、名古屋に直接会いに行きました。久屋大通の松屋の前でまだ寒い3月の夜に立ち話で3時間ぐらい話しました。そこで、
「一緒に働きましょう!」
と言われてその日は話を持ち帰りました。
嬉しかったけど、正直かなり悩みました。
看護師のキャリアを手放すこと、その後の生活のこと。不安もたくさんありました。
でも、「やらないで後悔するぐらいならやったほうがいい」その一心で2021年4月には名古屋に行くことを決めて遼さんへ連絡。2021年6月末には職場を退職し、7月には名古屋に引っ越しGOAL-B名古屋ジムスタッフとしての日々が始まりました。
ジムスタッフから正式に社員となった経緯
〜私はGOAL-Bにどうやったら貢献できるんだろう〜
7月から働き始め、最初の方は看護師派遣バイトをメインとしてジムスタッフを掛け持ちしていました。
看護師の派遣バイトで契約に関する問題が多かったことや、9月で契約期限を迎えることが重なり改めてこれからを考えることになりました。
せっかく名古屋まで来たのに、看護師として再就職することで本当に良いのか?そんなの自分が自分を許せないと思いました。
10月からは看護師という道を一度完全に切って、GOAL-Bに注力すると決めました。
とはいえ、私はGOAL-Bが提供するサービスのどれも担うことができません。私なりにGOAL-Bに貢献する方法を考えて、実行することでチャンスをいただくことができました。
「失業手当が切れるまでに、社員になれなかったら地元に帰る」
これを自分の中で心に決め、退路を断ちました。
それから1ヶ月後に、色々なタイミングが重なって私が貢献できるポジションがあり、正式に社員メンバーになることができました。
当時、カイさんにコーチングをしてもらったり、淳さんがジムで長時間相談に乗ってくれたり、黎玖くんが「友美さんも社員になるでしょ?」と真っ直ぐ疑いなく言ってくれたり、それ以外にも数えきれない後押しがありました。
私はいつも周りの環境に恵まれていると改めて感じました。
私一人の力ではできないことも、多くの人に支えられて実現できています。
私のこれから
〜私自身で幸せになり、幸せにする〜
GOAL-Bという組織で、働くことは毎日が変化の連続です。
慣れるのに時間のかかる私が、慣れる日は来ないかもしれません。
ただ、今はそれが面白いと感じています。
目まぐるしく変化する環境で、楽しみながら頑張るメンバーを少しでも支えられるよう、私も進み続けます。
また、私は今までの人生を長い間、他人軸で生きていました。
「この場合はこうすることが世間的にいいだろう」
「こうすれば、こう言えば相手が喜ぶだろう」
誰かが決めた正解を探そうと必死になっている間に、何がしたいのかわからない状態になっていました。
今は面白くて、やりたいと思うことができています。
3つの幸せについて、教えてもらったことがあります。
「してもらう幸せはすぐに満たされる。自分でできる幸せを満たすのに、時間がかかり、そのうえでやっとしてあげる幸せを満たすことができるんだよ」
私は、自分でできる幸せをすっ飛ばしてしてあげる幸せを満たそうとしていたことに気づきました。自分でできる幸せを満たすことから始めていこう。今は私が面白いと感じて、心からやりたいと思うことをやるのみです。
そして、今まで私に関わってくれた人たちを幸せにしたいです。
それが最終的にどんな形になるのか、今はまだわかりません。
ただ、そんな未来になることは心から信じられています。
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